不定期日記|20231130
怒りをぶつけない工夫
怒りをどう抑制するかという質問を受けることがあるが、怒りの根っこが何に由来しているのかを解明していかない限り難しいですね、と答えることが多い。しかし私個人はいくつかの分野においてこれを達成しつつあるので紹介したいと思う。一番成功しているのは、運転中に無理に車線変更をしてくる車に対して怒らない方法だが、これは入られるたびに「この人は一日分の寿命を僕に譲ってくれたんだ」と思うことである。そもそもはこういう人達に怒ったところで、自分のエネルギーが消費されるだけという意味のない反応をどうにかしたくて考えたことである。だったら思い切って自分にプラスが起きていると考えればいいわけで、今では自ら譲る場合や、横断しようとしている人の前で停まったりするときにも使っている(子供とお年寄りには使わない)。他には傘の途中の部分を握って後ろを刺すように歩いている人を「サソリだ!気をつけろ!」、マスクせずに咳き込んでいる人を「ミニゴジラだ!逃げろ!」とか想像しては、怒りを笑いに変えるように工夫はしている(書いてみると途轍もなくくだらないことに気付くが)。今考えているのは、カフェなどで突然電話でしゃべりだす人をどう捉えようか?ということだ。良い考えがあったら是非教えてください。
話してもわからない人はいる
「話せばわかる」という言葉をよく聞きくが、心理学や精神医学の世界では、例え共通言語を持つ大人同士でも、それが難しい場合があることは指摘されている。極端な例ではあるが、例えば自己愛性パーソナリティ障害という「自分は特別であるという感覚が強すぎて、共感や思いやりが欠如している」という傾向を持っている人は、分かり合うということがかなり難しいとされる。人のことより自分のことが大事なので、話したところでどこまで理解しようとしてくれるかは怪しい。また、よく毒親と指摘される人たちの中にもこれに似た傾向を持つ人がいる。自分の満足や不安解消、自尊心の底上げのために子供を利用するわけだから毒親と指摘されるのだが、そういう親は子供がどう話したところで「自分は正しい」「あなたは間違っている」の一点張りで、聞く耳など持ってはくれないのだ。
そういうこともあって、これで困っている人には「そういう人からは離れましょう」というざっくりとしているけど、とても明快な指導がされる場合が多いのがこの界隈の現状だ(子供の場合はとても難しいことになるが)。そんなわけで、日ごろ周りで「自分のこと」をとにかく押し付けてくる人がいたなら(対処は専門家に任せればいいので)自分のためにも一旦離れることを検討したらいいと思う。話せばわかるはずなんて少しも思わなくていい。そもそもこちらを傷つけていることに気付かない人と長くやっていくのは難しいのだから。
統計は使うが、統計を信じない
思考整理や悩みの相談が仕事とはいえ、リフレイムには、精神疾患と診断されたが症状や気質と上手くつきあうことができない、という件でいらっしゃる方も多いので、知識としてはそれらの症状の特徴や対処法を知っておく必要がある。それに伴い「統計的には~という方が多い」といった説明をすることもあるのだが、そもそも精神医学では投薬の為に診断をつけるという側面もあるため、状態分類は大切なベースになる。簡単なところでは「うつ病からの回復では~が多い」とか「依存症の人は他者を○○してしまいがち」とかがそれにあたる。もちろんそれらは我々にとっても有用な知識ではあるが、だからといってカウンセリングではそれを軸に個人を理解するわけではない。何故ならクライエントさんの状態は必ずしもそのデータ通りとは限らないからだ。人間にはそれぞれに固有の気質や性格があり、固有の経験や環境がある。固有の物語がある以上、話された内容を軸に個人を理解する姿勢が必要となるのだ。
固有の物語の前では普遍的データは参考でしかない。我々は統計を信じて話をするわけにはいかないとは、そういう意味である。
迷った挙句、同じものを選ぶ
こと食に関して顕著な傾向だが、私には外食時に何を食べるか迷った挙句、同じものを食べるという傾向がある。例えば何でもあるような店に入るとする。そういう店だからメニューは豊富にある。そうするとメニューを隅々まで見て「これにしようか、あれにしようか」と散々迷う。しかし結局のところいつもの〇〇を選んでしまうというわけだ。それは「味噌カツ定食」だったり「味噌煮込みうどん」のときもあれば「ナポリタン」や「サンドイッチ」のときもある。しかし、どう考えてもそれくらいしか思い浮かばない。どうしてそうなってしまったのかわからない。人によっては「名古屋人は保守的だから」と説明するが、私の知っている名古屋人が全てそうというわけではない。とにかく私は食に関して冒険しないし、好奇心もわかない。そもそも結局同じものを頼むのに、迷いに迷うという潔くない傾向まで持ち合わせている。そんなわけで外食の私には期待しないで欲しい。「色々よく知っていそう」と言われるが、本当に全く知らない。孤独のグルメのゴローさんのように、好奇心を持って食と向き合えたら人生が違っていたかもしれないと思う今日この頃である。
起きていることは身の丈に合っていること
いつからかははっきりと覚えていないが、自分に起きていることは自分の身の丈に合っていることだと考えるようになった。なったということは以前はそう思っていなかったということで、例えば会社員時代だと自分に対する評価が気に入らないときには「上は(自分の力が)わかっていない」と考えたり、人間関係が上手くいかなくなったときには「相手は自分の気持ちなど考えもしないのだな」と自分本位に考えたりしたものだ。しかし、そういうことが続いたりする中で「もしかしたら自分に問題があるのではないだろうか?」と省みることも徐々に増えたように思う。多分その過程で「自分に起きることは、現時点の自分の正確な評価である」と考え方が改められたのではないだろうか。
それに実際そう考えるといいことがある。それは「現時点で何かが足りないのだから、その何かを手に入れれば問題は解決するかもしれない」という単純明快な目標を持つことができるということ。要するに何かと勉強するようになったのだ。もっとも何が足りないか分からないので、とりあえず人間を知ろうとする。それがたまたま心理学と重なったということは大いにあるだろう。そういったわけで、今私はカウンセラーになったわけだが、いくつになっても相変わらず足りないものが見つかる日々なので、否応なく勉強せねばならず、「学生のときのこれくらい勉強していれば・・・」と思ったりする今日この頃である。
人を大事にしない理由が知りたい
最近よく将来無くなる可能性の高い仕事は何か?という記事を目にするようになった。確かにAIやロボット工学の進歩により、人の労力を介さずともできることはかなり多くなってきている。便利になるということはいいことだ。それにロボットは感情が無いのだから、疲れたとか休みたいなどとは決して言わない。何なら24時間休みなく働くことも条件次第では可能なのだろう。実に効率がいい。そこまでは私の頭でも理解はできる。悪いことじゃない。しかし、近年は企業や社会が人に効率を求めるようになってきている。よく耳にするワンオペなどもその代表だろう。確かに一人が最大限働けば効率も上がり生産性も上がり雇用も減らせる、ように見える。しかし、人間は疲れるし休まないと生きていけない。初めは効率や生産性は上がるかもしれないが、徐々にそれは落ち込んで、実際には初めより格段に効率も生産性も更には正確性も落ちてしまう。これは様々な研究で明らかになっていることだが、不思議なことに多くの経営者はそういったことは気にしない。中には恫喝や圧力でそれを維持しようとする輩まで登場し始めてして、いよいよ世の中は危ない感じになってきたと感じることさえある。
それに私には仕事柄気になることがある。効率や生産性を重視する時代に切り捨てられるのは何か?ということだ。少なくとも個性、あるいは人間性は限りなく不要なものだろう。何故なら理想形がロボットなのだから。つくづく実感するのだが、人間はとても奇妙な生き物だ。宇宙人が地球にやってきて人類を調査したならきっと「???」となるに違いない。何故なら、人間が人間である最大の特徴を「不要なもの」と切り捨てようとするのだから。
さて、様々な個性や人間性が組み合わさったグループほど強度がありクリエイティブで生産性も高いとされる研究もある中で(昔ビジョナリーカンパニーという本を読んで感銘を受けたことがある)このように人間の強みを捨ててまで追い求めるものにいかほどの価値があるのか、私は本当に知りたい。私でもわかるように誰か教えてはくれまいか。
終わりに
今回もくだらない雑談にお付き合いいただきありがとうございます。いつも書いていますが、担当するカウンセラーを知るうえで、少しでも参考になればと続けています。
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