2024-02-26

不定期日記|20240226

確定申告の作業が辛い

もう既に終わっている人も多いだろうが、私はまだまったく手を付けていない。毎年のことだが、この時期は確定申告があるので憂鬱だ。小学生の頃からそうだったが、夏休みの宿題も締め切り前にしかやらない性格は、大人になっても変わらない。好きな食べ物は最後にとっておくタイプだが、嫌いなことも最後まで残しておくタイプなのだ。そんなことなら毎日コツコツと記帳していけば、一瞬で終わる話なのだが、そもそもコツコツやる能力がない。なんでもそうだが、ギリギリになって一気にやるのが自分なのだ。(いや、威張るところではない)

そうこうしているうちに、あと二週間しかない。苦しみのないところに自ら苦しみを作り出して文字通り苦しんでいるなんて。こんなとき心理学的アドバイスなら「それも自分なんだから、否定せず受け入れよう」と言うのかもしれないが、そんなものはこれっぽっちも受け入れる気にならない。とにかく確定申告は嫌いだ。(すみません。ただの愚痴です)

思い込みが更新されない

上手くいっていないときは、いずれ何かを変えなくてはならなくなる。しかし、考え方を軸にして行動を決める以上、思い込みが強い人ほど行動を臨機応変に変えることは難しいだろう。

自分の考え方というものは、ある程度客観的に見ることができないと、何が問題なのか見えてこない。脳の性質上、自分だけで考えていると、ぐるぐる回り続ける思考の表層しか見えないので、問題に気づきづらいというのがその理由だ。気づけなければ小手先の変化しか起こせないから、結局うまくいかない状況が続く。メタ認知能力が高い人は自分を客観的に見ることができるので、案外自力で状況を打破できたりするが、こと思い込みが強く客観視も苦手な人にはとても難しい話なのだ。

では自分を客観視できないと何も上手くいかないではないか?というと、そんなことはない。自分で自分を見れないなら、他者に客観的意見を聞くという手があるからだ。「この考えどう思う?」「こういう場合に考えられることは何かあるかな?」など、自分だけではどうにも思いつかなかったことも、他者に聞けば思いもよらない角度の参考意見が手に入る。

しかし、そもそも思い込みが強く客観視が苦手な人ほど、他者の考えを素直に受け入れるのも苦手だったりする。「自分は正しい」「自分はわかっている」という思い込みが強ければ猶更だ。聞いたとしても、「お前はわかっていないな」と判断するから、自分を変えようとは思わないということも多々あるだろう。

ざっくりした話としてよく聞くのが「自分の人生だから好きなようにすればよい」という話だ。確かにもっともらしい響きがある。ただ、せっかく先達が様々なことを経験したうえで、よりよく生きる方法というものが伝えられているわけだから、そういった知見を取り入れずに思い込みに固執していては、自分を向上させることはもとより、次のステップに進むことも難しいだろうなと思う今日この頃である。

思い込みが更新されない2

世の中は変化し続けている。歴史を少しでも齧ったことがあるのであればわかることだし、義務教育で学んでいるので年号を覚えるのは苦手でも、今が昔とは違うことくらいは多くの人が認識しているだろう。だから当然のごとく価値観というのも時代に合わせて変わってしまう。例えば「公務員なら一生安泰」「大企業なら安心の人生」というのも昔の話だし、「手に職があれば大丈夫」「年金があるから老後は安泰」というのも崩れてしまっている。要するに価値観も時代に合わせてアップデートしていかないと、それが通用しない局面が増え続けてしまうということになる。

だから、今のような変化が激しい時代においては、以前より周りをよく見て、小刻みなステップを踏みながら臨機応変に進まないと、いずれ時代の波に飲み込まれて成す術もなくなってしまうのだろう。

とはいえ、人間は思い込みの生き物である。どんな人にも特定のバイアスがある。中には「その人らしさ」と呼ばれる素敵な思い込みもあるわけで(その場合は思い込みではなく、信念とか軸と表現されるが)一概に否定するものではない。だからこの話はあくまで「現状を変えたいなら」という前置きが付く。そこを押さえておかないと、この世は無味無臭の超合理的社会になって、つまらなくなるだけだから、最後に付け加えておきたいと思う。

世の中は良くも悪くも簡単には変わらないので

社会は正しくあるべきだ、という話を聞くことがある。そうであればどれほどいいだろうと漠然とは思うが、現実的に「正しい世の中とは?」と考えると、まったくイメージがわかない。ここでも何度か触れているが、「正しさ」ほど曖昧な概念はないと思っているので、それが数学の方程式の答えのことならまだしも、様々な人の様々な価値観や考え方で成り立っている社会が、方程式のようにきっちり運営されているとは思えない。どちらかと言えば、矛盾に満ちた答えのない世界という方がしっくりくる。

もっと言えば「社会さえ正しければ私は今頃~」というのも、「親が~であったなら私は幸せなのに」と同じくらい厳しいものがある。これはその考えを非難しているのではなく、それが達成する可能性の低さの話だ。確かに社会がもっと平等で公平で親切であったなら、困る人も今より少なくていいのかもしれない。しかし、どの時代を振り返っても、どの国を見ても、そんなことが起こりえないのははっきりしている。あちこちで謡われている人権に対するもっともらしい文言も、役所や企業の体面上ということもあるから、全てが本気とは思えない。そもそも今までその社会に裏切られて生きてきたのに、その社会に期待するしかないとしたら辛すぎるではないか。

だから、その社会をよく知ったうえで「自分ならこの難しい社会をこう生きる」というオリジナルの方法を考えていった方が、難しい波を器用に乗りこなすサーファーのように、颯爽と、少なくとも自分以外のことに腹を立てることなく生きられると思う。ちなみに私もまたこの社会の一部だ。会社という価値観からは距離を置いてしまったが、そのおかげで誰に期待するでもなく、誰に怒るわけでもなく、ひそやかに目立たずに生きられるようになった(もちろんいいことばかりではないが)。社会に全面的に期待しなくても生きていける隙間がある社会であることはまだ救いではないか?と考えることもできると思うがどうだろう。

それほどでもない人間だなと実感した効果

前回の戯言で書いたと思うが、私は今自分の考えをブログに綴るという試みに取り組んでいる。日々のあれこれを思考と絡め何らかの形にする試みだ。振り返ってみると、普段書いている仕事上のブログやSNSや音声配信は、勉強した内容や誰かの鋭い考えに触れることで触発されて文章化しているので、案外説得力もあったりするが、元々自分から生まれたオリジナルな考えではない。そこに気づいたので、自分オリジナルにこだわって取り組んでいるのだが、これが酷い出来なのだ。説得力の欠片もないし、感情を振りまいているだけの薄い文章だ。当然のことながらしばらくの間書き続けた結果「俺はそれほどでもない人間なんだ」となった。(こんなことを書くと、そもそもオリジナルな考えなど世界にはないと説教してくる人もいるだろうが、そういうことを言っているのではない)

しかしこれにはいいこともある。自分がそれほどでもない人間だと認識することは、「なぜ俺の良さがわからないんだ!」と腹が立つこともなくなるということだ。若い頃は自尊心に問題がある上に自意識過剰だったので、無理解な人に怒りを振りまいていた記憶があるのだが、そういうものからも距離をとることができる。これはとても楽だ。何なら時折慕われたり尊重してもらえたりすることはあるので、それを当たり前と思わずに深く感謝できるという面も生まれる。それともう一つ。それほどでもないのならまだまだ努力が必要だなと考えられるのも生臭な自分には丁度いい。そんなわけで、私にとって「それほどでもない」は結構良薬になっているという話だ。

経験に傷つき記憶に振り回されるなら

ここで専門的な話をするつもりはないが、現在生きるのが難しいと感じている人の中には、過去の経験で傷ついていて、そのことで今もなお感情的に振り回されているという場合がある。良い経験が人を育て良い記憶が人を支えるということがあるのならば、悪い経験が人を傷つけ悪い記憶が人を苦しめるということもあるのだ。

苦しんでいる人は、身の回りに起きる出来事を過去の経験と照らし合わせて考えてしまうので(例えば親に攻撃を受けた過去があれば、味方さえ敵に見えてしまうといった感じ)相変わらず傷ついていくし、今もなお傷つく経験を積み重ねているのだとすれば、未来もまた今の記憶の影響で苦しみ続けるのは容易に想像がつくところだ。

そんな風に書くと「じゃあ今をいい時間にすれば、未来は変わるということだよね?」ということになるのだが、残念ながらそう簡単な話でもない。いや、理論的には全くその通りなのだが、実際には自分に染みついている反射的反応は、なかなかそれをさせてくれないのである。しかし、今良い経験ができれば未来は変わるのが理論的に正しいのであれば、まったくお手上げということでもないだろう。ではどんな風に体に染みついてしまった反射的反応(例えば人にどう思われるか考えてしまうとか、人が怖いとか)を薄めていけばいいのか。そこがわかれば事態は好転するが、実際には個人個人で経験が違うので、統一された手法などというものはないのが現状だ。唯一言えるのは「合う人に出会い、合う場所を見つけ、そこで安心して過ごす経験を積み重ねる」ということだけだろう。

残念ながら多くの場合、そういった傾向の持ち主は「克服するべき相手を探し、克服すべき環境を見つけ、自分を追い込むことで」問題を乗り越えようとする。結果は皆さん知っての通りで、更に自分の傷を増やして事態が悪化し続けるということになる。そんなわけで多くの研究も理論もトラウマを抱えている人には、なかなか通用しない。でもこの事態を乗り越えていく人たちが少なからず存在するのも事実だ。何がそれを分けるのかをはっきりとは言えないが、なんとなく自分を変えたいという欲求の高さが関係しているような気はするのだが、どうだろうか。

サプライズをやめた

例えば当人には言わずに色々事前準備して、いざその時が来たら驚きとともに喜んでもらおうとすることをサプライズと呼ぶとして、私もまた地味ながらも、そういうことを好む傾向が長きに渡りあった。しかし、あるとき「急に言われたりされたりすることで困る人もいるのだ」という話を聞いて、考えを改めることにした。よくよく考えてみれば、サプライズで高揚しているのはそれをする側であって、される側ではない。する側はかなり前からそのことを楽しみにできるが、される側はそのときにしかそれを体験できないわけだから、結局のところサプライズとは当人を喜ばす比重より、する側の満足感を高める比重が高い仕掛けではないかと考えたのである。

それからはできるだけその日が来るのが楽しみであることを共有することにしている。相手も自分も楽しくなくては、人間関係はフェアとは言えない。それに喜びはシェアしてこそ深みを増すような気がする。(余談だが、サプライズの成功には相手が何をされると喜ぶかについての理解が必要条件として存在する。それもあって「何を贈ればいいか?」という質問を他者にしてしまうと、一般的に喜ぶとされるものを提案されてしまうから、厳密には相手が喜ぶものとの間にずれが生じるはずである。しかし、贈られた方は礼儀上「喜んで見せる必要がある」ので、贈り手はその姿を見て自己満足に陥りやすいという負の循環も起こりやすい。要するに、相手と深い関係を築いていきたいなら、相手を深く理解することは避けられないぞということを強く言いたいのだ。それは才能でもセンスでもなく努力だと思うがどうだろう?)

ちなみに私は医者から「甘いものを食べたくなったら大豆か海藻を食べなさい」ときつく言われているのだが、だからと言って「はい、プレゼント」といって大豆やワカメを渡されても全く喜べないので、そこは強く訴えておきたい。いったいどこの世界に「いや~今日は疲れたなぁ~、そうだ!こんなときはワカメを食べちゃえ!」なんていう人がいるというのだ⁈(やつあたり)

終わりに

今回も戯言にお付き合いいただきありがとうございました。こういった試みを「カウンセラーを選ぶ上での参考にした」と言ってくれる方が少なからずいらっしゃいますので、しばらくは続けていきたいと思います。気候変動が激しい折ですので、どうかお体に気を付けてお過ごしください。

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