不定期日記|20240530
歌える曲とは?
ロングドライブをするにあたって、走りながら聴く曲を探していた時にオフコースのベストがあったので久しぶりに聴きたいなと流していたのだが、これがほぼ空で歌えることに驚いた。私が小学生高学年から中学生にかけて聴いていたと思うのだが、そんなに昔に聴いていた曲の歌詞を覚えていたのだ。このところ記憶力にはすっかり自信を無くしていたのだが、古い記憶ほど明確に記憶されているのだろうか。確かに祖母が認知症になった時も、最近の記憶から抜け落ち始めて最後は子供の頃の記憶の中で生きていたので、そういうものなのかもしれない。
ちなみに中学を卒業するときに女子の間で〇〇帳というのを交換するのが流行った(クラスメートが一人に一枚ずつ書いた贈る言葉を綴じられるルーズリーフのようなもの)。私もほとんどの女子にそれぞれ言葉を書いて渡したのだが、紙の裏にオフコースの曲の歌詞を書いて渡した。今だから言うが自分の好きな子には一番好きな曲を書いて送ったのだが、当時の私はとにかく悲しいバラードを好んでいたので、好きな子に「さよなら」とか「もう終わり」的な曲を送るという本末転倒の展開になったことは思い出す度にため息しか出てこない。
最近どう?への回答に見る現在地
久しぶりの友人に会うと思わず「最近どう?」という質問を投げかけることは多々あるだろう。考えてみればわかることだが、質問者側に立てばその意図は「最近どんな風に過ごしている?」から「最近何か面白いことや興味深いことはある?」などの相手の行動に関することを聞き出そうとしているわけである。
ところで最近、年下の友人と久しぶりに会ったときに「最近どうですか?」と聞かれた私は「いやぁ、最近は体調が不安定でね。特に・・・」などと自分の体調に関する報告を延々としたところ、その友人に「体調のことばかり話しているとモテませんよ」と指摘を受けた。考えてみれば相手は先にかいたようなことを尋ねているわけであって、担当医として私の体調を質問しているわけではないのだ。若い彼女からしたら、まるで介護を要請されているかのような気分になったことは想像に難しくない。
自分では全く気付いていなかったのだが、このところ色々あって心まで歳を取ってしまっていたようだ。そう思った私は妙な焦りを感じるとともに、「このままではいけない」と強く自分に言い聞かせて、改めて錆びついてしまったアンテナを磨き始めることにした。取り急ぎというわけでもないが、このところは人と会うことを避けないようにしている。一人は楽だが、ずっと閉じこもっていたらどんどん守りに入っていることにも気づけない。そんなわけで、新しい年齢の目標は「最近どう?」に興味深い返しができるようになることである。こうご期待。
変わっているのか面白いのか
皆さんは誰かのことを評するときに「変わっている」と感じることが多いか「面白い」と感じることが多いか、どちらだろうか?この場合の「変わっている」は、理解できないとか間違っているように感じるとかであり、一方の「面白い」は、興味深いや刺激があるというニュアンスで考えてもいいと思う。
世の中には色々な人がいて様々な考え方がある。決して自分と同じ人はいない。このことは誰もが知っていることだと思う。しかし一方で自分と違うものに対して、あるいは理解できないものに対して、敵意や反論や違和感や怒りを感じることが多いのも人間の特徴だ。要するに誰もが自分の正解を持っているがゆえに、自分と違うものを「間違っている」と捉えやすいのだろう。
だからこそ「同じ人はいない」ことを意識しなければならない。基本は「違う」のであり、そういった考えを興味深く聞けなければ、誰もが孤立していってしまうことになる。カウンセリングをしていると様々な考え方に出会うことになるが、誰しもがそう考えるに至った理由を持っている。その理由を知ろうとしなければ理解などできるはずもないわけで、仕事としても成り立たない。そういう意味において、違う考えを「面白い」と受け止めることの意義はとても大きいのではないかと思うのだがどうだろう。
あきらめの功罪
「期待しなければ傷つかない」は真理である。私は長い時間をかけて仕事では意識できるようになった。ただ、未だに仕事以外では難しい。
一方で「期待せずに生きていくこと」はとてもつまらないことだとも思う。何故なら期待は叶わなければ傷になるかもしれないが、それが叶えば大きな喜び、あるいは快感が齎される仕掛けがあるからだ。そう考えると初めの言葉は「期待しなければ傷つかないが喜びもない」と言い直す必要がありそうだ。
ただし、注意しなければならないことがある。期待は伝えてしまえば相手への負荷になる場合があることだ。期待は本来自己満足(自分だけの喜び)であって、相手に伝えるものでも利用するものでもない。そんなことをすると相手は期待に応えねば悪いと思わされてしまい無理を重ねることもあるだろう。そんなわけで期待は取扱注意なのだ。
しかし、人間には時折こういった取扱注意な傾向が備わっていたりしてとても興味深い。備わっているということは、取り扱える可能性を持たされていると考えた方が自然なので、最近は湧き上がる思いはあまり否定せずに受け入れたいなと思うようになった。「期待して自分が傷つくくらいで済むなら別にいいじゃないか」といった感じに。
同じおじさんとして強く求めたい
「決めつけてしまう」「思い込んでしまう」のを何とかしたいという相談がある。トラウマからの自己防衛として、そうなってしまうのはよくあることなので、少しずつその傾向を和らげていくことは人間関係の改善や視野を広げるためには必要なことである。しかし、一方でオフの時間に誰かからそれを連発されるのは、なかなかにきついものがある。特に喫茶店や居酒屋のカウンター席などで、そういうおじさんが隣に座ると苦行のような時間が始まる。「あれは〇〇なんだ」「こういうことは〇〇に決まっている」「俺はいろいろ経験してきたから〇〇だとわかる」などと連発されるのは苦痛でしかない。そういう人に会う度に、同じおじさんとして「自分もこんな風じゃなかろうか」と心配しなければならなくなる。
しかし落ち着いて考えてみれば、そういう人は社会的経験値が低いと分析できるかもしれない。世の中には色々な人がいて、色々なパターンがあって、色々なタイミングがあって、色々な結果があることを知らないから、「これが正しい」に取りつかれているという見方だ。例えば有名レストランに行った人のひとつの批判を聞いただけで、一生に渡り「あのレストランは〇〇だからダメだ」と言い続けるようなものだろう。
自分がそれをやっているかどうかを調べるのは簡単だ。日頃、なぜ俺の正しさが分からないんだ!とか、なぜ色々してあげているのに誰も慕ってこないのだ!と感じることが多いはずだからだ。そうであれば、自分が決めつけや断言を多用していないか振り返ってみるといい。同じおじさんとして、そこは強く求めていきたいと思う。
移転前の心境
ご存じの方もいると思うが、リフレイムは6月に移転することになった。たまたま色々な事情が重なったのがきっかけなので随分急な話ではある。事実、私は4月の段階では移転のいの字も考えていなかった。そういった背景も影響してか、今回は前回今の場所に移転したときほどの高揚感はなく、自分でもこんな風で大丈夫だろうか?と考えたりするくらいだ。
前々回移転したのはちょうど14年前で、事務所から見える桜並木の景色が気に入ってそこに決めた。入ってみて色々な問題点に気づいたが、それでもその景色が好きだったので、結局7年間そこで仕事をした。しかしある日事務所の正面に大きな家が建つことになった。入居時には「ここは大家さんの都合で何も建たない」と言われていたのだが…時代の流れである。その結果その場所に対する思い入れが一気に消滅してしまった。決め手が損なわれた場所で仕事をする気にはなれなかったのだ。そこで近場で色々な物件を当たってみたが、当時は思うような物件がなく、徐々に範囲を広げた結果、地下鉄で3駅も離れた場所に移転することになった。それが今の高岳の事務所だ。一目見てとても気に入ってすぐに契約したのを覚えている。オフィス街の小さなビルの一室だったが、室内のデザインがバブル世代のトレンディドラマに出てくるような感じで、学生の頃に漠然と考えていたカッコいい仕事場に見えた。入ってみるとコンクリート打ちっぱなしで築40年以上経っているその建物は、夏は暑く冬は寒いという過酷な環境ではあったが、それでも雰囲気に対する愛着が上回り続けた。気づいたら7年。ここで沢山の人達と会話を続けてきた。いいことばかりではなかったが好きな時間だったと思う。
考えてみると7年おきに移転している。次の場所は、その静けさと清潔さとアクセスの良さに惹かれて決めることになったわけだが、次の7年の始まりの場所としても、カウンセリングルームとしても、今までで一番まともに感じる。高揚していないということは冷静に選べているということなのかもしれないなと思いつつも、6月になって準備が始まったら、そんな悠長なことも言っていられないだろうと考える今日この頃である。
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