不定期日記|20240704
形から入る功罪
移転が完了した。年齢を重ねるごとにこういった煩雑さを伴う作業がおっくうになるとは聞いていたが、確かになかなかの労力と気力が必要な作業だったと思う。しかしこれは仕事であって趣味ではないので、きっちりと計画通りに行うことが必須だったことが、そのおっくうさを上手く抑え込んでくれた。悪者扱いされやすい「すべきこと」も使いようだなと思った次第である。
新事務所はかなり快適で、移ってみて改めて気づくのは、今までの環境はなかなかに過酷だったということだ。特にコンクリート打ちっぱなしの築40数年の旧事務所は、夏はとてつもなく暑く、冬は過酷なくらい寒かったので、地味に体にダメージを受け続けていた。そのデザインと雰囲気に一目ぼれして借りた事務所ではあったが、近年の異常な夏の暑さを考えると、体調を維持する為にという意味合いにおいて潮時と考えていいだろう。
考えてみると昔から形から入る方だった。洋服や靴やカバンなど身に着けるものから、自転車や車などの乗り物も基本的には「一目ぼれ」して、細かい検討を抜きにして手に入れてきた(値段は気にしたが)。そして結果的に「使うときに不具合がある」とか「なんだか使いづらい」などの問題には何となくは気付いたものだ。しかし「好きの魔力」とは凄いもので、対象がどれだけ自分と合わなくても、どれだけ質が悪くても、そういったことが魔法のように気にならなくなってしまうし、時には「合わなさが癖に」なったりする力を持っている。そう考えると、人間関係にもそういった不均衡さを見えなくしてしまうような「好きの魔力」は存在しているよなと、これを書きながら少し遠い目になったりしている。
過去に持っていかれない練習
前回、久しぶりの人と会った時などに近況を聞かれて「体の調子」や「過去の思い出」ばかりを語るようになっている自分に気づいて、これはいけないと焦ったという話を書いたと思う。未だに、喉元過ぎればなんとやらの傾向が強い自分には珍しく、そのことがずっと魚の小骨のように喉に引っかかっていた。
先日も人と話していて「なんだか今を生きているという実感がないんだよね」という話になった。これは哲学的な話ではなくて、何というか本当に自分がフワフワと宙に浮かんだままのような、例えるとまるで幽体離脱した状態で、抜け殻になった自分を見ているような感じに近い。
そのときに思ったのは「やはり過去への意識が強いことが影響しているのかも」ということだ。そして何だかわからないが「これはいけないぞ」という気持ちがふつふつと湧いてきた。
それ以来【今自分に起きていること】か、【これからの自分こと】を個人のSNSで呟くようにした。今までは社会のことや過去のことを憂いたり怒ったり悲しんだり懐かしんだりしていたのだが、それを意識的に変えることで今の自分に焦点を合わしてみる試みをしようというわけである。面白いことに早速その影響が表れ始めていて、以前に比べて積極性が上がり行動的になってきた。
脳には思考の癖がついてしまうと言われるが、同時に意識的に癖をつけなおすことができるのもわかっている。それは無意識に過去の回想を続けていれば過去からは逃れられないが、意識的に今や未来についての分析や構想に脳を使い続けていれば、必要以上に過去に引っ張られなくなるということだろう。過去を消してしまえとは思わないが、過去も今も未来もバランスよく考えていきたいとは考えているので、この一人臨床実験をしばらく続けてみようと思う今日この頃である。
※過去のトラウマに対しての医学的な対処法ではありません。あくまで私の趣味ですので悪しからず。
虚しいときもある
先日、叔父に誘われて某バンドのライブに行った。親戚の中で唯一の交流がある叔父はもう80の手前だと思うのだが、とてもエネルギッシュでちょっと風変わりな人で、田舎の出である私の家族や親族一同からは「変わりもの」と思われている節もあるが、なぜか私には昔から優しく接してくれるいい人だ。その叔父は色々な経緯があってミュージシャンの知り合いが多く、私が学生の頃から様々なライブやコンサートに連れて行っては本人に紹介してくれるのだが、何せ音楽に縁遠く引っ込み思案な私は気の利いたことも言えずもじもじしているだけなので、紹介のし甲斐がない甥っ子だったことだろう。
先日誘われたのは、叔父の古い知り合いで御年75歳のアーティストのライブだ。彼がまだ50代の頃に叔父に誘われて聞いたのが初めの出会いだと思うが、そう考えるともう20年以上聴いていることになる。「以前ほど声が出ないな」と感じたのも初めのうちだけで、演目が進むにつれて徐々に力強い声が戻ってきた。オリジナルのブルースが体に染み渡る。次第に熱い気持ちが湧き上がってきた。ぼんやりした心を揺さぶるいいライブだった。
そんな彼が自分の人生を思う曲の中で「虚しいときもある。でも~」というフレーズを口にした。それはちょうど更年期障害の影響で何とかクライシスの真っただ中にいる私の心情を説明するかのような曲だった。そのフレーズに気を取られてしまったので、正直その後彼が何と歌ったのか記憶がないのだが、とにかく私はそのときハッとした。「こんな風に皆に愛されて好きなことをやり続けている彼でも虚しいときがあるのか」と。
振り返ってみると、いつの時代にもこれからどう歩いていけばいいかを身をもって示してくれる人がいた。先輩には恵まれていた私は、彼らから数多くの生きるヒントや勇気を貰いながら歩いてきたのだと思う。しかし歳を重ねるにつれ、貰うよりは渡す機会が増えてきた。そういったある種当たり前の変化の中で、「してもらったことを、次は私がしなければ」と自分でも知らぬ間に気が張っていたのだろう。あるいは気ばかり焦って空回りしていたのかもしれない。
彼が歌う「虚しいときもある。でも…」に思わず和んだ自分に気づいて笑みがこぼれた。周りからしたら「この渋いブルースを笑うとは大丈夫か?」と不気味な感じだったかもしれないが、それでも私は笑わずにはいられなかった。「あぁ、俺はすっかり空回りしていたな」と思うと同時にやってきた、久しぶりの解放感がそうさせずにはいられなかったのだろう。
結論:老いるにはまだ早かったようだw。。
あとがき
移転にまつわるあれこれが落ち着いて、ようやく不定期日記を書く余裕が出てきました。いつも書いていますが、どんなカウンセラーなのかが分からないと、カウンセリングを受けづらいという方の為に、日常の出来事を書き綴っています。参考になることがあれば幸いです。
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