不定期日記|20240821
AIが凄い
とある機会があってAIの凄さを教えてもらう機会を得た。ChatGPTのような生成AIのことだが、こちらの質問に対してあらゆるリソースを元に瞬時に的確で正確なアドバイスをくれるのを目の当たりにして一番に思ったことは「私の仕事って、そのうち不要になるんじゃないか?」である。仕事では知識を利用して分析することがあるのだが、AIが私などとは比べ物にならない情報量を基に作った分析を伝えられるようになるのであれば、カウンセラーの存在価値はより限定的になってしまう気がする。「これはやばいことになったぞ」と率直に思う。ただ、今のところ人間は人間のリアルな温度感によって癒されることもわかっているので、今すぐに逆転されることはないような気もする。
しかしその温度感もいずれ映画「her」のスカーレット・ヨハンソンが演じていたAIのように、情感たっぷりな感じで克服してくるような気もするので、私がこの仕事についている間は、発展の進行速度を弱めてもらいたいと切に思う次第である。(とはいえ引退した後は、話し相手になってもらいたい)
あの頃にはあったはずの視点
音声配信でも話したが、あまり人と話さない日々を送っていると、白黒思考になってしまう気がする。
独立して以降、会社員時代よりも他者と話す機会が減ったことと、出無精なことが災いして、OFFの時間に誰かとコミュニケーションを取ることが激減した私だが、それでもときには誰かと会ってお茶したり食事に行ったりはする。そんな折に最近の出来事や感想を話していると、2人の意見しか飛び交っていないのだから、まるで世の中には2種類の意見しかないような感覚を覚えることがある。それは例えば〇か✕、白か黒、正解か不正解、敵か味方・・・のような感じだ。もしかしたら世の中にはびこる誹謗中傷や炎上も、人間関係の狭さに起因しているのではないだろうか?と思うくらいだ。
学生の頃はクラスに様々な価値観の生徒たちがいて、毎日のように見たり聞いたり話したりしていた。そのおかげで「人間には色々な種類があって色々な考え方があるのだ」ということを日々体感できていたのかもしれない。その経験は、『価値観や考え方はグラデーション。合う合わないや好き嫌いで選べばいいだけ』ということを教えてくれていたのだと思う。
どうやら私は狭い世界に入り込み過ぎてしまったのかもしれない。そしてそれは少なくとも私の希望する状態ではない。そんなわけで、できる範囲で徐々にでいいから、あの頃にように様々な考え方に触れられるような環境を探ってみようと思うようになった今日この頃である。
アイスコーヒー
私はコーヒー好きだ。色々な豆を手に入れてはドリップして飲むのは趣味の一つと言っていい。ところがよく考えてみたらアイスコーヒーを作るということはしたことがない。そもそも冷たいものを飲み過ぎると腹痛に襲われるし、暑い中でホットコーヒーを飲むのはなんだかカッコいいと思っていることも理由だ。しかし、今年の暑さは異常だった(去年も同じことを思った)。そこでついにアイスコーヒーを飲むようになったわけである。初めはスーパーで手に入る出来合いのペットボトルものを飲んでいたのだが、どうもしっくりこない。そこで少々値が張るが大手のコーヒーショップが監修しているような紙パック物を試してみた。しかしこれも香りが弱くしっくりこない。そんなときふとSNSに流れてきた自宅でできるアイスコーヒーの作り方を見かけたので試しにやってみた。なんとこれが香りが立ってかなり美味しいのだ。作り方はお茶パックに挽いたコーヒー豆を入れて冷水に入れて一晩おくだけなのでとても楽だ。今では前夜に仕込んでおいたアイスコーヒーを飲むのが楽しみになったくらいだ。アイスコーヒーが好きならお勧めである。(ちなみに私は深入り豆の粉30gをお茶パックに入れ500mlの水を入れた容器に浮かべて一晩〔10時間くらい〕冷蔵庫で寝かせ次の朝飲みます)
不安な匂い
地下街を歩いていると、ときどき不安な匂いに出会うことがある。それは決して臭いということではない。何というか甘くて生温くて…とにかく不安になる匂いとしか言いようがないものだ。どこから漂っているのかは定かではないが、時折不意にその匂いが充満した区域に足を踏み入れてしまう。それにいつも同じ場所ではないので、ますます不安になる。一体何なのだと若干パニックにもなったりする。しかし出会ってしまったものは仕方ないので、まずは対処を考える。例えば危険な匂いなら、すぐに口と鼻を覆って逃げるという手段が取れるのだが、不安な匂いとなるとそうもいかない。不安というのはあくまで主観的な感想だし、もしかしたら他の通行人は気になっていないかもしれないのだ。そんなときに「うぅっ!」と鼻と口を覆うような過剰反応をすれば、「あの人は悪いものでも食べて吐きそうなのだろう」くらいにしか思われないだろうし、「怪しい奴だ」と遠巻きにされるかもしれない。お手上げである。
とはいえ気になるものは気になるので、そういうときには息を止めて通り過ぎることにしている。ところが「もういいだろう」という頃合いで息を吸うと、まだ不安なにおいのさなかだったりして、思い切り吸い込んでしまうこともある。そうなると体に何か起こりそうな気がしてますます不安になるので、あの匂いの思うつぼだ。一体あれは何の匂いなんだ…
対人恐怖のジレンマ
基本的に人は経験することで新しい考え方を身に着ける生き物だ。良い経験が多い人は世界の良い面を見ようとするし、性善説をベースにして人間関係にも積極的になっていく。反対に悪い経験しかしていなければ、世界の悪い面ばかり見てしまうし、ときには人間関係でこれ以上辛い目に合わないように閉じこもりがちになっていくこともあるだろう。
では過去に人間関係で悪い経験、もっと言うと「心が尋常じゃないレベルで傷つけられるような経験」をしてしまった人はどうなるのか。ざっくり言ってしまえば人に傷つけられた人は人が怖くなる。それが深刻なレベルであれば、社会生活が難しくなったり、トラウマや対人不安で常にビクビクしていなくてはならないことだって起こりうる。
では、それを改善していくにはどうするかというと、人間関係で傷つく経験をしたなら人間関係で安心するという経験をすれば改善するというのが基本的な考え方だ。
しかしここで大きな問題が生じる。果たして人間が怖い人が新しい人間関係を模索できるのかという問題だ。過去に犬にひどく嚙まれた経験のある人が、この犬は噛まないから大丈夫と言われて「じゃあ安心」とはならないように、この人は安心だからと言われたからといって、「じゃあ安心」とはならないのだ。どれだけ大丈夫と言われようが、人の前では緊張してしまうし、緊張すれば相手の言葉や動きひとつひとつが気になってしまい、結果的には安心体験ならぬ緊張体験をするだけだ。言い換えればトラウマを積み重ね続けることになってしまうだけだ。だから対人恐怖がある人は、理論的には実証された改善法があるにも関わらずなかなか改善しないということになってしまう。
話を整理する。良い経験を積み重ねれば良くなるが、良い体験と分かっていても怖いからと新しい経験を回避し続ければ悪化する。もちろん、統計的に言えばそこを何とか乗り越える人もいる。それも全体の半数くらいはそうだ。そんなわけで、もしかしたら鍵は「支援者と当事者の相性かも」と考えている今日この頃である。長きに渡ってこの問題で苦しんでいる人がいるなら、このことについて一考してみてはいかがだろうか。
終わりに
今回も特に意味のない話を読んでいただきありがとうございました。これから大事な話をするカウンセラーがどんな人かを知りたい方は多いので、私が最近考えたことを定期的に書いています。何かの参考になれば幸いです。
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