2024-10-25

不定期日記|20241025

ジムに通う➀

意を決してジムに通うことにした。それも今流行りのパーソナルトレーニングジムである。更年期障害と診断されてから、薬以外に対抗策はないかと考えていたのだが、脳科学の本を読んでいた時に筋肉量とホルモンバランスの関係についての記述を見つけ、筋力トレーニングはやってみる価値ありという結論に達したことが理由である。パーソナルジムにしたのは、ホルモンバランスの乱れの影響でコツコツ取り組むことが難しい中で、先生が私を待っているというプレッシャーがそのコツコツを達成させるであろうという他力本願的目論見による。実際に迷惑をかけることが性格的にとても嫌なので行かないわけにはいかない。かつて親に言われ続けた「人にだけは迷惑をかけるな」という呪文がここでは上手く生きた。素晴らしい。そんなわけで私はジムに通うことになったのである。

ジムに通う➁

仕事場の近くで探して申し込んだジムは小奇麗なビルの1階にあった。担当してくれるのは、Tさんという私よりはるかに若い女性だ。イメージしていたような筋肉バリバリでキラキラな感じではなく、落ち着いた感じのとても穏やかな人で、どちらかと言えばトレーニングというよりリハビリ的な私には丁度よいトレーナーさん。何よりも話しやすくてありがたい限りである。
久しぶりの運動はなかなか厳しくて、すぐに息を切らしてしまったが、ちょうどいい具合に負荷をかけ続けてくれることもあって、最後まで乗り切ることができた。終わってみればとても爽快な気分で、申し込んでよかったという思いが溢れてくる。ちなみにトレーニングしている途中もかなりの高揚感があって、随分と饒舌になっていた。大学の頃、ラグビー部の練習で追い込まれたことを思い出す。あの頃も色々なものを抱え込んで鬱屈としていた私を安定させていてくれたのは、そういったことを考え続けても、閉じこもることができないくらいラグビーでとことん追い込まれる日々があったからだと思う。

短期集中コースなので2か月で終わるが、きっと11月の終わりくらいには元気ハツラツで背筋の伸びた内田になっていると思われるので、我ながら楽しみである。

強固な意志で突進してくる人たち

仕事場を移転してから公共交通機関を使うことが多くなったのだが、中でも名古屋市営地下鉄はよく利用する。そこで時折出会うことになるのが『強固な意志で突進してくる人たち』である。駅について降りようとドアの前に立つと、その駅から乗り込んでくる人たちは降りたい人が降りきるまでは両サイドに寄って道を開けていてくれるのが一般的なはずなのに、開くドアの中央に立ちはだかって、開くと同時に車内に突進してくる人がいる。そのままだと激突するので、こちらが避けることになるのだが、何故こちらが一方的に避けることになるのかを考えると少々嫌な気分になる。しかし相手のあまりの勢いに「あれ?もしかしたら乗る人優先だったっけ?」という考えも浮かんだりして、結局いつも避けている。

こういう場面ではよく「きっと身内が緊急事態なんだよ」という言葉と共に軽やかにやり過ごす方法が提案される。私も晩年の祖母が認知症が進むにつれ突進していく人の仲間入りをしたので、今では「人には様々な理由があってそういう行動をしてしまうようになるのさ」という考え方をするようにはなったのだが、あまり続くと「その理由とやらを教えてはくれまいか」と若干好戦的になる節があるので、できるだけ自制するようにはしている。ときどき「家から一歩外に出ると危ないことばかりです」と話す人がいるが、それについては大いに同意する日々である。

名建築巡りをした

休みを利用して大阪に小旅行をした。目的は名建築巡り。

発端はテレビドラマの『名建築で昼食を』に嵌ったことにある。田口トモロヲさんと池田エライザさんが、ふとしたことで出会って、師匠と弟子的な関係で名建築を回るだけのドラマなのだが、これがとてもよかった。当時は随分と癒されたものだ。そんなわけで、そのときからいつか自分も巡ってみたいなと思っていたわけである。

明治や大正時代から存在する数々の建築物は、当時の大阪の状況もあって重厚でデザインも凝った作りのものが多いのだが、巡った建物はどれもちゃんと手入れが為され現役で使われていた。それらの建物を外からも内からもじっくり眺めていると、丁寧に作られた細部のデザインや、それを維持してきた人たちの想いが詰まっているようで、「お前はちゃんと生きているか?」と自分自身の生き方を問われているような感じさえした。背筋が伸びる思いだ。

今まではその土地の珈琲屋さんをひたすら巡るのが私の旅であったが、これを機に名建築巡りも加えたいと思う。会うだけで背筋が伸びる相手なんて、この歳になるとなかなか出会えないからね。

人と交わること

考えてみると、一人旅というのはいつだって行けるが、誰かと行くとなるといつでもというわけにはいかないことに最近思い当たった。そんなことは当たり前だと言われそうだが、そう思ったのだから仕方がない。それと少し関係があるが、人と交わりを持つことも人間にとってはとても大事だと思うようになった。もちろん過去に人間関係のトラウマがある人はそうも言っていられないのだが、私自身は最近そう思うきっかけがあったので、それについて少し書いてみようと思う。

春先に友人のM君が亡くなって以来、更年期障害も重なって塞ぎ込みがちになっている自分に気づいて、それまでの付き合いの悪さを返上しようと思ったのは今年の夏の最中だった。たまたまだが、昔の知り合いから久しぶりに誘われることが重なったりして、懐かしい話を交わすことで少しずつ元気が回復した。相手がどう思っているかは別として、不調だった私は「知り合いってありがたいなぁ」と心から思ったものだった。振り返るとM君がいた日々もしょっちゅう彼のところに行っては、ああでもないこうでもないと話し合っていて、とても楽しい日々だった。意識したことはなかったが、誰かと時間を過ごすという豊かさを享受されていたのだなと今は思う。

旅の話だった。いつからか心がけているのは、旅に出たら一度は必ず誰かと話す機会を持つということ。旅の目的が主に珈琲屋さんを転々とすることである私の場合は、大体知らない町の珈琲屋さんでマスターやママさんと話すことを意味する。違う世界で生きている同じ傾向の人たちと言葉を交わすことは、自分自身の内側の世界が広がっていくような、癒されていくような気がして心地いいものだ。それに「お元気で」と言って別れる度に、この世界に再び訪れたい場所や会いたい人ができるのは、なかなか豊かなことではないだろうか。

そんなわけで、もしタイムマシーンがあるならば、「俺は一人で生きてやるぜ」と尖りまくっていた若い頃の私に会って、「お前はいずれ、人と交わることは豊かなことだと言い始めるぞ」と言って凹ましてやりたいと思う。

最後に

久しぶりの不定期日記の更新です。いつも書いていますが、カウンセリングの成否はカウンセラーとの相性に大きく影響されます。そこでカウンセラー選びの際の参考にしていただければと、不定期で日記風の文章を書いていますので、お読みいただけると幸いです。

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