不定期日記|20250309
◆ジム続報
パーソナルジムを2月初めに卒業して、事務所の近くに見つけた一般的なジムに入会した。歩いて5分くらい。仕事に空きができたときに利用する感じだ。平日の日中ならだいたい空いているから人混みが苦手な私には最高の環境である。入会時に体の組成を測ってもらうと、体重が減っている上に筋肉量が増えており、パーソナルトレーニングジムの成果がかなり出ていたので感激した。何度も繰り返すようだが、トレーナーのTさんには感謝しかない。先日2度目の測定結果も前回を上回る結果で「始めたばかりなのに凄いですね」と言われたのだが、Tさんに教えてもらった自重トレーニングをコンスタントに続けているからだろう。筋トレの影響でホルモンバランスに良いことが起きているようで更年期の不調も以前より減った気がする。このまま習慣化できれば何よりだ。もっともこんなことを書くと「筋肉ムキムキおじさんになるのでは?」と思われるかもしれないが、Tさんに教えてもらったのは体幹の強化なので、見た目は何も変わらないただのおじさんのままだから安心していただきたい。(誰も気にかけてはいないと思うが)
◆ついに山を再開しました
パーソナルトレーニングを始めた理由は以前にも書いたが、山に登る体力を回復させたいというのも一つの理由だ。成果を試すべく2年ぶりに近隣の低山に行ってみたのだが、これが以前よりぐいぐいと登れるようになっており、歩きながら震えるくらい感動した次第である(山のアプリに残っている過去データを軽く更新した)くどいようだがTさんには感謝である。そこからは天気が悪くない限り毎週のように近隣の山を転々と歩いている。
ずっと以前の日記に書いたことがあると思うが、私にとって山は疲れた心を回復させるのに最適な場所である。もやもやを抱えたまま歩きだしても、道がハードになるにつれ歩くことだけに集中せざるを得なくなって雑念が消えていくような感じがするのだ。下山の頃にはすっかり気持ちが軽くなっていてモチベーションも上がっている。今のところ処方薬よりは効くので興味のある方は試してみて欲しい。
◆伝わらない人にはどうしたって伝わらない
「どうしたら伝わるのか?」とよく聞かれる。家族やパートナーに自分のことを説明しても誰もわかってくれないし、それどころか逆に説教されたりキレられたりするので困っているという類の話である。話すこと自体が苦手な人であれば、話し方を練習したり、話す内容を精査すれば、それなりに伝わるようになるし、伝わりやすくなるテクニックなるものもあるので、まだやれることはあるのだが、そもそもわかろうと思っていない相手に話す場合、言い換えると他者を尊重していない相手に話す場合には、何をどう説明しようとも決して伝わらない。そういう類の人達は基本的に自分にしか興味がないから、悪気のある無しに関わらずどんな話も自分を主人公にしてしまう。強いて言えば自分が優しくすることでメリットがあるときに優しくなるだけである。
相手に軽んじられ続けている人ほど辛抱強く相手に希望を抱き続けたりするのを長年見てきたが、辛抱強く受け入れているから相手に軽んじられるようになってしまったということもある。それは人間関係においては割と起こりうることだと思う。我慢がいつか伝わるのではなく、「簡単な人」「都合の良い人」と認識され尊重される機会がどんどん減っていく。人は「相手のことをわかりたい」と意識しない限り『自分の都合のいいようにしか解釈しない』という基本傾向を持っているのだ。
もちろんどんな相手でも尊重しようとしてくれる人はいるだろう。しかし今の社会は多くの人に精神的余裕がないので、そういった誠実さを維持できている人に会える確率は以前より低くなっているような気がする。「だからこそ我慢」という考えもあるだろうが、私としては「だからこそ自分を大事にして欲しい」と心から思う。
◆運命の人かどうかは後でわかる
出会った瞬間に「運命の人だと分かった」みたいな話はよく聞くが、その後その二人がどうなったのかを追跡すれば多分「運命の人ではなかった」という展開になっていることが多いのではないだろうか?(相手が恋愛対象であればホルモンが活性化して相手が普段以上にキラキラして見えるので「運命」と感じやすいということもあるから、恋愛でのこの錯覚は仕方ないことである)
私としては運命の人かどうかは、その人と長い間付き合ってみて初めて分かることだと思っているので、あまり早急に結論を出さない方がいいと思っている。早急に結論を出してから付き合い始めると、冷静になって違う部分(特にネガティブな部分)が見えたときにしんどいからだ。
特に心理的距離感が近い人は、短期間で「運命」を感じやすいかもしれない。普段から対人で強い欲求を持っている影響で、相手のどこかが理想に近いと「この人に違いない」という思い込みが発生しやすいのではないか。更に自尊心に問題があると、理想と違う部分が垣間見えても「気にし過ぎ」「相手にも色々あるのだ」などと自分を説得し続けるようになって苦しむだけになってしまうということもあるだろう。
少し脱線してしまったので話を元に戻そう。相手がどういう人かが最初にわかれば人間関係を築く上でとても楽になるとは思うのだが、人間は多面的だし、すべての部分を見せずに生きている以上、最初にわかるのはほんの一面でしかないということを踏まえると、やはり時間をかけて関係を構築していくなかで判断する方がいい気がするがどうだろう。(自分を尊重してくれない人の場合は早々に判断を!)
◆経年劣化を楽しめない
私は新しいものを好む傾向がある。新発売とか新品とか聞くとついついそそられてしまうのだ。一方で古くなったものを簡単に処分してしまう傾向も近年強まっている。以前は部屋中もので溢れていたのだが、数年前にフルリフォームをした際に、それらを置いておく場所がなく、思い切って処分してしまった機会に、「これからは一つ買ったら一つ捨てよう」と思い立ったことも一因だ。
しかし、歴史的建造物やアンティークの家具を見るのは好きなので、決して古いものが嫌いというわけではないと思う。そう考えると、これからいい味が出始めるというタイミングを見誤りがちということがあるような気がする。というのも、振り返って考えると「捨てずにとっておけばよかった」と思うものは数知れずあるからだ。特に自分が見切りをつけたものが大事に使い続けられていたりすると、そのものが発する味わいの深さに猛烈に後悔する。ではなぜ見誤るのか?一番の理由は新しいものを見ると、持っているものがみすぼらしく見えて、持っている自分もまたみすぼらしく思えてしまうことだ。こればかりはどうしようもない悪い癖で、子供の頃からずっとそうだった気がする。(既にあるのに新しいものを欲しがっては父親に叱られたものだ)致命的欠陥と言ってもいい。
ただ、これが人間に対しての傾向じゃなかったのは神に感謝するしかない。私には古い友人も新しい友人も(たとえ会っていなくとも)大事な存在である。数多くの問題がある人間だが、ぎりぎり「人でなし」だけは免れていると思っている。
◆一体どうしてしまったのだろうか
最近、深みは無い割に切れ味だけは鋭い攻撃的な言葉を目や耳にすることが多くなった。その一方、以前よく耳にした「未来を担う子供たちの為に何ができるか」という言葉はとんと聞かれなくなった。ただの歴史の過渡期ということであれば仕方ないが、これがスタンダードになるのであれば、一体大人とは何のために存在しているのかと思わずにはいられない。だからといって何かができるわけでもないのが情けないところだ。
大きな流れを変えたいなら、目の前の小さな流れを変えることだと誰かが言っていた。それくらいなら私でも何とかなるかもしれない。もっとも私の社会との関りは仕事の場なので、これは要するに仕事を頑張りますという話。頑張りますよ。
◆終わりに
ここまで読んでいただきありがとうございました。気づいたら前回からふた月も空いていました。寒い日が続いていたので体調を崩しているという話をカウンセリングの席でもよく聞くのですが、私も例外なく調子を崩していたのでなかなかに集中してパソコンに向かえない日々だったように思います。そんなわけで花粉症の私でさえ春が待ち遠しい今日この頃。皆さんもどうかお元気で。
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