不定期日記|20251006
不完全なままで行こう
自分の状態を改善したいときに人が思うのは「100%の状態」になることだったりする。おなかの調子が優れなければおなかが絶好調になることを想像するし、人間関係が上手くいかなければ人間関係が得意になれたらと思うし、うだつの上がらない日々だと思えば世界で成功している自分を夢見るし、といった感じで。
それが悪いというわけじゃない。人は目標や夢を持つから頑張ろうと思えるし成長する生き物だ。だから自然なことだし何ならいいことだったりもするだろう。しかし、ある程度生きていればわかってくるが現状を180度ひっくり返すことは現実的には不可能である。その証拠に我々がよく目にする成功しているように見える人たちは全人類のほんの一握りだし、その状態を続けられる人はもっと少ない。殆どの人は夢に見た自分通りにはならないまま一生を終えていくのだ。
だとしたら「100%」の状態は夢だけにしておいて、現実的な折り合いがつくラインを想定した方が良いのではないだろうか。30%の人は30%なりに、60%の人は60%なりに良いバランスを見つければいい。「こんな性格だからダメなんだ!変わらねば!」ではなく、「こんな性格だけど工夫してなんとか楽しくやってます♪」がいい。要するに「最低限生きていられれば私にもできることあるんですよね」みたいな達観した感じが我々の目指すところではないかと思うのだ。
『自分と上手く付き合う』は心理学ではよくテーマにされる。性格や気質を変えるのは難しすぎるしストレスも半端ない。多くの人が挫折する。だからこそ実現可能な生き方として提唱されているわけである。そんなわけで今から我々がやるべきは「自分とはどんな人間なのかを解明して、とりあえずあるものを使ってこの世界でやっていくための工夫を考えること」だと思う。そして私はそのお手伝いをするためにこの仕事をしている者である。
見えない人に発信することの是非
私はSNSに投稿するのが苦手だ。しかし実際のところは各種SNSに心理学や精神医学のあれこれを投稿したりしている。なぜやっているかというと独立して間もない頃、自分に合うクライエントさんだけが来てくれればと間口を狭く設定していた私に「自分に合う人に出会いたければ間口は広くしろ。出会いとはたくさんの人と接点を持つことでそのなかからお前を選んでくれる人が現れるということであって、こちらが選ぶなどただの傲慢だ」と師匠が話してくれたことに端を発する。実際にそのおかげで数々の出会いに恵まれて今日に至るまで仕事を続けられているのだから師匠には感謝しかない。
苦手な理由も書き記しておこうと思う。
私が主に対応している複雑性PTSD(愛着障害を含む)では当事者の背景や性格や現状に沿った言葉を選んで慎重に話さないと、心のうちに点在する心的外傷由来の地雷を踏んでしまいがちで、それはお互いにとって更なるトラウマを生み出すことにつながる。故にSNSのような【不特定多数の様々な事情や性格の持ち主への配慮が不可能】な媒体において【私個人の価値観や正義感によった言葉】で精神疾患系の改善の説明やアドバイスを発信することは、あまりに無責任な結果を生み出す可能性があるからだ。
ではそれを念頭に発信するとどうなるかというと、曖昧で断定を避けたぬるっとした無難な表現に終始してしまい(例:〇〇な傾向がある一部の人にとっては△△が難しい可能性を持っているかもしれないので念のために✕✕しておくことは悪いことではないかもしれないと言えなくもない)…結果何を言っているのかわからない。結局散々考えた挙句、書くのを諦めることを繰り返す日々である。
そんなわけでやはり相手の話を聞いたうえで相手に合った話し方で対話をすることが一番大事だよな…と思いながら、今日もSNSを前に唸り続けるのである。
いいお客さんでありたい
「常識のない喫茶店」という僕のマリさんの本を読んだ。とある喫茶店で働くマリさんのお客さんに対する様々な思いを記憶と共に辿る内容だが、これがかなり痛快で面白かったので刺激を受けてこれを書いている。接客業をしたことのある方にはとても面白く感じると思うので興味があれば是非にと思う。
今の仕事も接客業と言えなくもないが、振り返ってみると私はどの時代もお客様を相手にした仕事をしてきたので接客に関しては思うことは少なからずあるし、自分が客としてお店を利用するときも気を付けていることがある。それは「お店にとっていいお客さんであること」だ。例えば私は事務所で気が乗らないときにはチェーン系のカフェでパソコンを開いたりするが、混んでいるときには決してしないし1時間以上いるときはもう一杯追加注文する。注文するときも笑顔だし受け取るときも「ありがとう」と言う。それらは自分が良く見られたいというよりは、店側に「あぁ、いいお客さんだなぁ」と感じて貰えるかいう視点に立ってしていることである。
マリさんも書いていたが良いお客さんを相手にすると幸せな気分になれるし、この仕事好きだなぁと思えるので、私もそうだったがそのお客さんにはちゃんと接しようとするものだ。店員も人間である。それに世界情勢も影響して心に余裕をもって働ける環境ではなくなっている。昨今よく言われるが「お客様は神様です」という時代はもう終わったのだ。考えてみれば当然だが代金は商品と等価交換であり、それ以外のサービスはあくまで良いお客さんに対してお店の人が生み出す温かい気持ちでしかない。
そんなわけでほんの少しの心がけで双方幸せになれる世界があるのであれば、私は「良いお客さんでありたい」と思う。こんな風に人間同士がピリピリとして対立が尽きない時代だからこそ、そんな小さなことでもきっと世界平和のきっかけになったりするのだと信じて。
野望
先日少し困っていたところ、たまたま通りがかったとても気の利いた若者2人組に「手伝いましょう!」と声をかけられた。その雰囲気があまりにも爽やかだったので思わず「それは嬉しいな。ありがとう!」と私も笑顔でお礼を言った。後日その出来事を思い出したときにふと「誰かにあんな風に声をかけたことがあっただろうか?」と思い振り返ってみたのだが全く思い出せない。とても残念な人間である。しかしだ、人にはないが犬や猫にはある(威張ることではないが)。子供の頃から私は犬や猫に遭遇すると声をかけるという癖があるし、なんなら深い問いを投げかけたりもする。概ね彼らはちらっとこちらを一瞥してすぐに興味を失ってしまうが、それでもその癖は今も続いている。ときどき彼らと話せたら随分と楽しいだろうなと考えたりもしていたので、村上春樹「海辺のカフカ」でナカタさんが猫さんと話をし始めたときには随分と興奮した記憶がある。
少し脱線してしまった。そんなわけで一生に一度くらいはあんな風に爽やかに「手伝いましょう!」と言ってみたいと思うようになった。かなり爺さんの様相になりつつあるので、実際に声掛けなどしようものなら困っている人が更に困るかもしれないが、やらない後悔ほど自分を苦しめるものはないので仕事の行き帰りにはきょろきょろしつつ虎視眈々と声掛けのチャンスをうかがっている今日この頃である。







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