不定期日記|20191030
不定期日記|20191030
相性
ある人が「好きすぎる相手は相性が悪い相手だ」といったようなことを書いていたのだが、本当にそうだなと思わずにはいられない。何事も過ぎればよいことは起こらない。特に対象が人であれば尚更だ。好き過ぎれば感情を抑制できない。「好かれたい」「気に入られたい」が発動しやすく、素の自分ではいられない。相手にも圧力を感じさせてしまう。結果無理が続いてどこかでおかしいことになってしまうだろう。もっともこれがリアルな世界でのことでなければ、それ以上は入り込めないという線があるので、それはそれで成立するようにも思える。例えば趣味の世界や芸能人の追っかけなどである。何にせよ感情に振り回されるような「過ぎる」ことには注意したいものである。
深まる
個人的に考えが深まるような刺激的な対話が好きで、仕事でもいくつかの企画を実施している。一人の時でも様々なことを考え続けていてそれはそれで楽しいのだが、ときには他の人とその考えについて語り合い自分だけでは気づけない領域まで掘り下げたいからだ。そういう意味では、相手も積極的に会話に参加してくれるのが理想だが、仕事の企画では受け身の人もいるので(仕事の性質上仕方ない)プライベートの時間では、大いに語り合える相手が必要となる。それができるなら多少の無理もできるし、泊りがけで会いに行くのも問題はない。有難いことにそういう相手が若干名いてくれるので、色々あったとしても頑張れたりする。私にとって深まるとは生きる為のエネルギーの源泉なのかもしれない。
準備
どんな問題でもそうだが、それを解決するにはそれ相応の準備が必要である。山に登ろうと思えば装備やコース設定はもちろんのこと基礎体力が必要だし、独立しようと思えば計画や資金準備はもちろんのこと仕事に対するコンセプトが必要である。しかし中には準備せずに問題に飛び込んでしまい失敗する人がいて、私のところにもよくそういった相談が持ち込まれる。焦る気持ちは十分わかるが、人前に立つと手が震えて呼吸困難になるのに「司会を上手くやる」ことはできない。会社のパワハラ上司のターゲットになっているのに「落ち着いて仕事をする」ことはできない。要するに本題を考える前に、それを可能とする状態を手に入れる必要があるということだ。準備なしで成功するとしたら余程運がよかったということであって、『準備なしで成功する』方法があるわけではないので、そこの線引きは必要である。
錆を落とす
休日をどう過ごすかというのは大切な問題だが、家族がいるので完全に自由というわけにもいかず、色々な用事をこなすだけで終わっていくことも多い(もっとも家の人に言わせると僕は随分自由に生きているらしい)。休日の時間を自由に使える場合、山に行かなければ映画に行くか外で珈琲を飲むかといったところだが、名古屋にある行きつけの珈琲屋さんも定休日なので、頑張らない程度に珈琲のおいしい店を探したりすることも多い。しかし錆を落としたいとなると話は別で、それ専用の決まった珈琲屋さんに行くことになる。たまたま知り合った人に教えていただいた店だが、とにかく仕事に対する姿勢が素晴らしい。空気がピンと張りつめたような心地よい緊張感と静けさが、頑固に錆びついた心を洗い流してくれるように感じる。豊田にあるので頻繁には行けないが、豊田市美術館とセットで行くとちょっとした小旅行気分も味わえるのも良い感じである。
朝
朝の特別な感じが好きになったのは、山の頂上で迎える珈琲時間が初めてだったように思う。どこか心細いなかで、温かい珈琲を胃に流し込むにつれポカポカしてくるあの感じは、多分一人だから味わえるような気がする。孤独を味わう試み。次に好きになったのは大人になって仕事も独立して一人で旅に出かけるようになってから。会社が動き出す前の知らない町のチェーン系珈琲店で同じように少し眠気が漂うサラリーマンに混じって外を見ながら飲む珈琲。徐々に人通りが多くなるオフィス街や繁華街の雰囲気の中で自分だけがこれから自由を満喫するのだと思えるあの瞬間。特別を感じる試みだ。今の仕事場は名古屋の中心地から少しだけ外れたところにあるので、降りる駅を一駅変えれば労せずして街なかにはいることができるのだが、あるオフィスビルの中庭に面したチェーン系珈琲店は、少しだけ旅先のオフィス街の雰囲気を味わえる。自由時間が始まるわけではないが、少しのことでも気分が変わる性格なので、寝覚めの悪い朝には重宝させてもらっている。
高所恐怖症
高所恐怖症である。ただし山では怖いと感じることはあまりなく、頂上から見下ろす景色も、断崖絶壁の上で食べるおにぎりも気分よく楽しめるので、それは人工建造物に限る。とにかくビルの上から見下ろす景色には鳥肌が立ってしまうほど恐怖を覚える。四六時中「何らかの拍子に倒れるに違いない」と感じるし、展望台的な場所に連れていかれると、ビルの中心側に沿って歩くことになる。情けない限りだ。大阪の海遊館横の観覧車に乗ったときには、床がスケルトンであることに気づいた時点で目をつむって神に祈り続けたくらいである。あるとき某ゼネコンの現場監督をやっている(スカイツリーにも携わった)という人と話す機会があったのだが、その人曰く「日本の技術は凄いから、今ある高層建築物はどんな地震がきても倒れませんよ」と理由も込みで教えてもらった。そのときは「なるほど」と納得できたのだが、理屈ではわかっていても、いまだに高層階に行くたびに体は絶賛拒絶するので、これは一生治らないのだと思う。
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