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2020-12-07

不定期日記|20201207

怖がり

病院が嫌いである。もっと言えば検査が嫌いだ。そもそもモノゴトを悪いほうに考える傾向が強いうえに、母譲りの繊細さが(母も滅多に医者に行かなかったのだが、それは我慢強いからではなく怖いからだ)それに拍車をかけていて、「最悪のことになったら・・・」などと考えてしまう。なんならそれだけで胃に穴が開きそうである。残念なことに年齢的なこともあるのか、このところやたら体調が悪い。症状的に考えると「更年期」とも思えるのだが、「もしそうじゃなかったら・・・」と考えるといてもたってもいられなくなるので、できるだけ現実から目をそらすようにしている。「そんなことなら早く検査してすっきりすればいい」という意見もあると思うが、それは例えるなら「お化けが怖いなら、墓場でキャンプすれば慣れるよ」と言っているようなもので、感情を軽んじる人のアドバイスだ。こういうのは生来のものだから仕方がない…というのが一番良さそうな落としどころである。

怖がり2

最悪のことが怖い理由を考えてみた。よくあるのは「現世でやり残したことがある」といった理由だが、それはない。そもそもモノゴトは思ったようにならないというのが今までの人生で学んだことなので、私には理想の結果というのがあまり思い浮かばないからだ。(理想の状況というのはあるが、それはできる範囲で維持しているので、やり残したというわけではないだろう)。次に「大切な人たちと別れたくない」という理由だが、これはこれで「だからといって大切な人が皆いなくなるまで生きているのも寂しい」ので、多少は関係あるかもしれない…くらいだと思う。となるとやはり「最悪の状況というものを体験するのが怖い」が一番当てはまりそうだ。要するに「死ぬのって苦しいんじゃないか?」である。もうこうなると情けない限りではあるが、本当なのだから仕方がない。とにかく私は『想像を膨らましすぎる子供のように』怖がりなのである。。

小津

最近、小津安二郎の映画を立て続けに観る機会があって思ったのは、特に人間ドラマを描いた映画は行間を読ませるような作りであるほど、観客の解釈に多様性が齎され、それぞれが独自の解釈で腑に落とすことができる、ということだ。こと正解にこだわる日本人気質にはオリジナルな考え方をする上で良い訓練になると思うので、そういうことが必要な人には一つの提案として勧められるかもしれない。ただし、小津作品はどの作品もキャストがかぶりがちな上に、家族を描いているのがほとんどなので、連続で観ると誰が誰だかよくわからなくなるので要注意である。

ベンチ

小津作品を観ていると。懐かしい昭和の風景を思い出すことができる。厳密には自分の親の世代なので、中には古すぎるものもあるが、それでも懐かしい。長屋や看板や原っぱや物干し竿や割烹着やちゃぶ台・・・数えればきりがないほど、子供時代を思い出させてくれる。でも今回集中的に観る中で気付いたのは、当時は町の中に椅子やベンチがなくて、多くの人が立ったまま話し込んだりしていることだ。更にちょっと田舎の描写だと、大人でさえ原っぱにじかに座って話し合ったりしている。「こんな風にしてたっけ?」というのが率直な感想なので、自分の時代には既にあちこちにベンチなるものが設置されていたのかもしれないなと改めて認識した次第である。ベンチは豊かなることの象徴なのかもしれない。

マザーハウス

最近意識するようになったのが、商品を手に入れるときは、お金を儲けるためにやっている人からより、その商品が好きな人から買いたいということだ。先日某テレビ番組にマザーハウス(ハンドメイドの鞄の会社)の社長が出ていた。彼女がまだ個人経営レベルのときに何かのドキュメンタリーで取り上げられていたのを観て以来、とても久しぶりだったのだが、彼女が率いるマザーハウスの躍進ぶりが凄すぎて言葉を失うと同時に、さもありなんという気持ちにもなった。彼女はモノを愛する人だったし、それに関わる人すべての幸せについてちゃんと向き合っている人だったからだ。こんな表現はどうかとも思うのだが、人が最も欲しているのが愛で、それがあるところには揺るぎない力が宿るような気がする。そして愛がある限り、人は強い結びつきで繋がり続けることができる。生命エネルギーの源泉だ。僕もそういう仕事がしたいと思う。

どういうわけか同じ背景の夢を見ることが多い。コロナ禍においては余計その回数が増えているし、はっきりと覚えていることも多くなった。いくつかある中で印象的なのは授業をしている夢だ。以前そういう仕事をしていた影響だと思うが、以前と違うのは生徒たちが私の話を全く聞いてくれないことだ。大きな声を出そうとしても声が出なかったり、面白い話をしようとしても何も思い浮かばない。何なら僕がそこにいることさえ生徒は気が付かない。すっかり自信が打ち砕かれたころに目が覚めるパターンだ。心理の勉強をするようになってから、あの頃の子供への接し方は間違いも多かったな…と思うことが増えたのも一因かもしれないが、とにかく目覚めた後の気分が悪い。今度同じ夢を見たら…と通勤の車の中でちょっと模擬授業したりもするのだが、何度見ても結果は同じなのですっかり教師としての自信を無くした今日この頃である(夢の準備をするというのも・・・)

言語化したい

考えを言語化するのが好きだ。うまく表現できると自分をより深く理解できたような気がして尚嬉しい。しかし実際には100%表現できることなどないのでいつも「もう少し何とかならないものか」と考えてしまう。そんな風なので、なるほど!と思える表現に出会うとついついメモってしまうし、それに近い心情を持った時にはそのまま拝借して利用したりしている。村上春樹、小川洋子、田口ランディ、吉本ばなな、西加奈子・・・自分が20代から30代にかけて「言葉」を拝借した人たち。他にも茨木のりこを知ったときは衝撃だったし、初めて聴いた尾崎豊に「なんて優しい視点なんだ」と感激したりもした。最近だと(数年前だが)朝ドラの『半分青い』に出てきた「秋風羽織」の使う言葉は群を抜いて美しかったし、高橋君が主演の『僕らは奇跡でできている』の「一輝」の言葉ひとうひとつが心に響いた。こう書いてみるとこれも私の趣味なのかもしれない。生きているうちにあとどれくらい突き刺さる言葉に出会えるのか…とても楽しみである。

言いたい言葉

「横文字の専門用語を使うやつは信用ならない」と言う私にM氏が「確かにそうだけど、よく考えると自分もそういうときがある」と言うので、よくよく振り返ってみると私も「今はそれがデフォルトなんだよね~」などとやっている。やっていることを棚に上げて人を批判するなど俺も老いたな・・・などと考えていると、M氏が「でも専門用語を入れてくる奴は自己顕示欲だけど、俺たちの場合はその単語の音のカッコよさにあこがれてやってるところがあるかも」という仮説を立ち上げたので、それに乗っかって「無邪気な自己顕示欲」と考えることにした。要するに「どう見せたいか」ではなく「どうありたいか」を体現しているのだ。これならそう悪くない。しかしよく考えてみると正しく使えているかどうかは注意しないととても恥ずかしいことになるから要注意だ。それならいっそ使わないほうが身のためだろう。リノベーションとイノベーションあたりは危険だし、コミットやらインバウンドもよく聞くわりに曖昧な気もする。またやたら重ねるのも逆効果で、インフルエンサーのドラスティックな意見もエビデンスは・・・などとやるとルー大柴みたいになりそうだ(ルーさんはもっとセンス良いが)。そんなわけで言葉選びもクールにいきたいものである(この辺りが無難)

サイズ感

直接私を知っている人ならわかると思うが、もともと身長が高いうえに大学時代にラグビーをやっていたこともあって、わりと大柄のほうなので、服選びに困ることが多い。若い頃は店に入るなり「お客様に合うサイズのご用意がございませんので・・・」などと言われることも何度かあったほどだ。更に接客されるのがとても苦手なこともあって、押しの強い店員だったりするとサイズがあったとしても欲しくないものまで購入する羽目になったりする。そんなわけで最近のネットショッピングの発展はとても喜ばしいのだが、ひとつだけ問題がある。それはサイズ感がメーカーによって違うということだ。年齢と共に筋肉が落ちてきたこともあって、だいたいXLであれば問題ない時代もあったが、このごろはそれだとやたら大きかったり、逆にピチピチだったりと基準として使えない状況が多い。しばらく困ってたのだが、あるときこれの解決策を見出すことができた。それは各ブランドが使っているモデルが共通な場合、その人の着たサイズ感から自分のサイズを見出すという方法である。「お、今回はどの写真も腕まくりしているな・・・」とか「お腹のあたりでワンクッション入ってるな・・・」とかがチェックの対象で、「Lでこの感じだとすると、多分XLでいいな」といった感じだ。しかし先日急にモデルが変わってしまって、さっぱりわからなくなってしまうという事態が生じた。「私のお気に入りのモデルは一体どこへ?・・・」とおろおろする今日この頃である。

外(そと)

先日あるクライエントさんと「外がいい」ということで盛り上がった。気分が変わるのは断然外で風に吹かれているときだという認識が一致したのである。少ししか時間がないとしても、ちょっとお茶するときでも、外で休むと随分気分が変わる気がする。そもそも山に行ったりして自然に触れるのが好きなので、体が状況に勝手に反応するのだろう。そんなわけで仕事の行きかえりにコーヒー屋さんのテラス席を利用して本を読んだりすることも多々あるのだが、店内も閑散としているときなどは、お店の人がそっと寄ってきては「中も空いていますよ」などと声をかけられる。その度に「外が好きなので」と答えているのだが、なんだか「あの人はコロナに過剰に神経質なんだ」と思われていそうで落ち着かない。そもそもそんなこと思わないだろうし、そう思われていたとしても関係ないし、私のことなど眼中にもないとは思うのだが落ち着かない。自意識が邪魔をするのである。そんなわけで、ここに宣言したい。『私はどんなに寒い季節でも外が好きなのだ!!!』※ちなみに寒いのは嫌いである。

終わりに

本当は心理のことをもう少し…とも思うのですが、この世界で仕事をしていると「誰かの役に立つ知識は、誰かを傷つける可能性もあるのでは?」と考えずにはいられないので、できれば専門的な話は相手を見ながら話したい、というのが個人的な考え方になっています。今回もなんでもない話を読んでいただきありがとうございました。またどこかでお会いできたら幸いです。どうかお元気で


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