雑記|20190131
雑記|20190131
2018の総括(仕事)
今頃になって総括もないのだが、やはり区切りを意識するのは大事ということで書きたいと思う。移転2年目の2018年は認知度も上がり前年より多くの人に来ていただくことができた。利用理由様々だが、多かったのは『自己評価の低さの影響で他者との関りが上手くいかない』という悩みだったように思う。これはHSPや毒親関連の勉強会を実施している影響もあるだろう。また、この仕事は上手くいっても上手くいかなくてもクライエントさんが来なくなるので最終成果が見え辛いのだが、最後に卒業と銘打って来ていただいた方がいたり、しばらくしてからメールで成果を教えてくれる方が増えたことも嬉しい出来事だった。最後の回は多くを語り合った友人と別れるような寂しさを感じることもあり、ちゃんとお別れができるのは良いことだと思う。2019年も出会いを卒業に結び付けられるような仕事をしたい。
50
2018は私が50という区切りの歳を迎えた年である。50になったからといって何かが変わるわけでもないが、気持ちの部分では、もう人生の終盤なのだという思いが強くなった。両親も健在で祖母(98)も存命なので、あまり自分が年老いたという実感はないのだが、それでもあんなにしっかりしていた祖母が認知症になり、バリバリ働いていた両親から力強さが消えたことは少なからず時の流れを感じさせる。「面倒は見るから」と言いつつ『自分のときは自分でやらねば』と気合を入れる今日この頃である。
年賀状
昨年は喪中だった。喪中の次の年の年賀状は減るというので、今回は思い切って来た人にだけ年賀状を書くという方針にした。というのも、ここ数年は『出しておいた方がいいよな?と気を遣う人に出す意義』について考えが纏まらなかったからだ。で、実際のところ一昨年の2割しか来なかった。また、両面印刷だけのものもあり、相手も形式的に出していることがわかった。『やめて良いタイミング』の到来である。来年からは『出したい人』だけに出そうと思う。
映画
昨年は映画を150本ほど観た。特にM氏と知り合ってからというもの、かなりのハイペースで観続けたように感じる。これだけ増えたのは老眼になってから好きだった小説の世界からすっかり足が遠のいてしまったこともあるだろう。しかし共通の何かについて深く語り合うことができるという経験は、小説を読んでいた頃にはほとんどなかったこともあり、とても楽しいものであることを今更ながらに知った。それが高じて映画の会(現在2代目)も立ち上げた。良い晩年に突入した感がある。
すべき
「~すべき」という言葉をいたるところで聞く。「~すべき」という以上は何がしかの答えであるようにも思えるが、そもそも万人共通の答えなど存在しないし、やらなければならないことがそんなにたくさんあるとも思えない。先日も面白そうな映画を探していると『現代人が観るべき映画』なるキャッチコピーに出会ったが、現代人がそれを観たら人間性でも変わるというのか?そもそも現代人しか観られない映画を、あたかも地底人や未来人がいるかのような限定をするのもやめていただきたい。
すべき2
「~すべき」には責任の不在感がつきまとう。どうしてもやらないと困るのであれば「~しろ」でいいのではないだろうか?母親が子供に「ご飯を食べなさい」というのは理にかなっているが、「ご飯を食べるべき」と言ったら、子供側にも選択権が生じて「そうは言ってもお菓子を食べるもんね」と言い返されても仕方ないような気がする。そう考えると自分に向かって「俺は~すべき」というのも実は「そうは言ってもできないもんね」という本音があるのかもしれない。
新しい景色
「一度やってみる」という言葉がある。一度やってみないとなにもわからないとは言わないが、やってみたら気づいたということはあると思う。「趣味が無いから何か提案して欲しい」という人には「一度~をやってみてはどうか?」と伝えることが多いが、結果「何も起こらなかった」と帰ってくる人が一定数いて、どうやら伝え方が不味かったと気づく。「一度やってみる」のは、《何かが起こるから|客体的》ではなくて、《何かに気付くため|主体的》である。
提案
先日その道のプロに「どうして太ったと思いますか?」と訊かれたので、「甘いものがやめられないからですかね」と返答すると「それはスイーツというものが柔らかくてついつい飲むように食べてしまうからです。そこでご提案ですが、固いスイーツに変えてみてはいかがでしょう?」「固いスイーツ??」「そうです。例えばハードビスケットとかビスコッティとか・・・せんべいでもいいですね」と続いた。一見本題からずれているようで、実はとても理にかなっているようにも思える絶妙な答えに「うむむ」となったのは言うまでもない。
提案2
「変わらなければならないなんてことはないんです!自分のままでいいではありませんか!」「~だからダメという考えはやめて、~でもいいから始めませんか?」などという言葉を聞く度に嫌な気分になるのは、結局のところそれは「白じゃなくて黒です!」と言っていることになっているだけで、自分の首を絞めているようなものだからだ。何かを否定するということは、答えの存在を意識しているからともいえる。どうしたらいいかわからなくて追い詰められている人にするアドバイスでは無かろう。この世界には答えは無くて、どうしたいかが75億通りくらいあるだけだ。「白じゃないなら、何色だろう?」自分によりフィットするものを折に触れ探していけばいい。
ニーズ
《話を聞いて欲しい》と《問題を解決したい》は違う。カウンセリングではどちらにも対応できる準備が整っている。時間がかかるのは《話を聞いて欲しい》のに「問題を解決したい」というアプローチがあった場合で、こちらがそうと気づくまでにクライエント側がしびれを切らしてしまうこともあると思う。
ニーズ2
《嫌なことだらけで楽しいことがない。嫌なことが無くなれば幸せだと思う》はある意味そうだとは思うが、若干誤解があるから書いておくと、その状況だと嫌なことが無くなったら何もなくなるだけだ。何もないという状態を幸せというのなら、それは幸せだと思う。
今を生きる
「ストレス溜まってたので、日曜日にお気に入りのカフェに行って美味しい珈琲を飲んでまったりしてきました」という人に「珈琲を飲みながら何を考えていましたか?」と訊くと十中八九「明日からの仕事」「職場のこと」「悩んでいること」という答えが返ってくる。これではストレスと向き合いに行っただけで、まったりできたとは言い難いであろう。珈琲を飲んでいるときは珈琲のことを考えたい。「そうは言っても考えちゃいますよ」と言うなら、珈琲のことに集中せざるを得ない場所を探したらいいと思う。挫けずに行うその繰り返しが、今を生きることに繋がっていくような気がする。
最後に
ここに書いたことの多くは、HSP心理学交流会で自分が言ったことのうち、振り返って思い出せたもの。参加者の方に質問されたうえでのこともあるし、ふと言いたくなってということもある。こんな風にして私もまた誰かと関わることで自分を再発見し続けているのだろう。思えばこんなにも誰かと話し続けたことってあっただろうか?学生の頃?初めて働いたとき?・・・今後どうなるかは自分でもわからないが、「少なくとも自分に問い続けた人生であった」と振り返れるように生きていきたいとは思っている。
2019/01/31 hiroshi uchida
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