2018-08-28

雑記|20180827

雑記|20180827

敬称の切り替えどき

話すことが仕事なので言葉遣いには注意を払っているつもりだ。仕事上のメールのやり取りでは自分のことは「私」とするし、カウンセリング中は「私」、少し慣れてくると「僕」を使う。あまり友人と会う機会もないが、そういうときには「俺」を使う。目上の人には恒常的に「僕」。それ以外では親しくなってくると、どこかのタイミングで「僕」から「俺」に変わるので、その辺りは関係性のバロメーターになっている。ただ、自分のことならいいが、人を呼ぶ場合には難しい。例えば初めは仕事上や何かの繋がりであった人には「~さん」から入るわけだが、中には割と気が合って付き合いが深くなっていく場合がある。その場合の「~さん」から「~君」への切り替えどきがわからないのだ。いい加減気兼ねなく色々話せるようになっているのに「~さん」というのも何だか居心地が悪いではないか。かといって急に「~君」というのも相手との温度差があるかと想像すると少し怖い。「~君」と言った後で「~さん」と切り返されたら顔が真っ赤になるだろう。では「~さん、今から君のことを~君と呼ぶよ」と断りを入れたらどうかとも思うが、これも不自然で何だか関係性が遠のく気がする。また相手が女性だと更にややこしい。例えば親しくなったときに「~さん」から「~ちゃん」に移行するのは気が引ける。セクハラに対する女性の怒り具合は嫌というほど見てきたので、「~ちゃん」は行き過ぎではないか?と強くブレーキがかかる。呼び捨てという手もあるが、ドラマに出てくるようなざっくばらんな男女関係時代の人間ではないので土台無理で、結局「何て呼べばいいですか?」みたいなおかしなことになってしまう。50にもなってそんなことさえ自分で決められないのかとがっかりだ。そんなわけで敬称の切り替えどきについては私が相談したいくらいである。

声の大きな人たち

先日、某ブックカフェで本を物色していたときに、大人の女性3名と子供2名という組み合わせの集団が誰かにプレゼントする絵本を探していたのか、割と大きな声で相談をしたり笑い合ったりしていた。確かに店内のあちこちに散らばって探しているので、情報交換をするには大きな声で話すしかないのだろうが、他にもお客さんはいたし、ブックカフェ内はお静かに!の看板まで立っているので、ちょっと異様な光景だ。もっとも最近ではそういう輩に下手に注意でもすると、思ってもみない反撃を食らうことが多いので、店のスタッフも見て見ぬふりをしていた。すっかり本を探す気が失せたので、早々と店を出て歩道を歩いていると、今度は手にスマホを持ちながらイヤホンマイクに向かって大声で話しながら歩いてくるおじさんに遭遇した。初め遠くで見たときには、ひとりで大声を出して笑っているようにしか見えなかったので「おじさん大丈夫か?」と思ったのだが、電話だと気づいた後は、あんな大きい声で話していたら内容が駄々洩れではないかと思い「おっさん大丈夫か?」と少しトゲを含めてもう一度呟いてみた。しかし自分がしていることが気にならない生活とは一体どんなだろうと思うと興味深いものはあるが、友達になることもないので一生謎のままだろう。

恐怖の食パン

もともとパンが好きで、かなりの量のパンを消費するし、新しい店や商品を見つける度に行かずにはいられない方だ。ところで私はここ数年、夏になると必ず胃腸が不調になって痛み出す。当然あまり食べられなくなるし、少し食べても苦しい。食欲もなくなっていく。このままではいけないと、食べたいと思うものを探して入った店でたまたま購入したのが、その店の売りである生食パンだ。しかし、後にわかることになるがこれが実に恐怖の食パンだったのである。胃が痛いのに手が止まらない。「やばい」「死ぬ」「旨い」「痛い」とか言いながら完食して急いで胃薬を飲んで横になる。痛みは治まらないが後悔はない。理性が吹き飛ぶほどの美味しさだ。こんな食パンがこの世にあったなんて!明日も食べたい!毎日でも食べたい・・・もしかして何か入ってる?

理解しあえるタイミング

カウンセリングについては常々できるだけ無駄な時間を省きたいと考えているが、これはあくまで軌道に乗ってからの話で、クライエントさんを理解するまでは案外時間がかかるものだと実感している。というのもクライエントさん自身、私に慣れて安心感が増すまでに時間がかかるからである。そう考えると、クライエントさんが「この人(私)なら【本当のこと】を話してもいいだろう」という気持ちになるまでには平均すると2~3回のカウンセリングが必要だと感じる。そしてそこまで行くと概ね深い話ができるようになるので、流れ自体が好転するというのが経験的に学んだことである。ただ、だからといって最初のうちは我慢して通って欲しいという話ではない。私との相性がいいとか、私を信頼してくれたとか、クライエントさん自身のそういった感覚的な条件が満たされたから通ってみようという気持ちになるわけだし、深い話ができるのである。私と話して「ピンとこない」のであれば、頑張って継続することにはあまり意味がない。何が言いたいのかと言うと、カウンセリングの成否は「相性」に最も左右されるということが言いたいのだ。

これだ!の裏側

例えば、啓発本やセミナーやその他諸々の【自分を変える】類のものに「これだ!」「やっと見つけた!」となる人ほど、あまり成果が出ない。これは人との出会いにも言えると思うが、「理想の人だ!」「やっと出会えた!」「運命だ!」と感じがちな人も長続きはしないだろう。仮説としては、普段から頭で「答えがどこかにあるはず」と想像を繰り返していることで、外部に対する期待値が上がり過ぎていることが考えられる。よって想像に少しでも合致すると「これに違いない!」とスイッチが入りやすい。またその場合は100%スタートなので、時間が経てば経つほど減点しかできないことになるというわけだ。減点が続けば「変わって欲しい」「分かって欲しい」になるか「我慢する」「もう無理」となる。何にせよ長続きは難しいだろう。経験的に言うと、自分の外部に答えが落ちていることはまずない(ヒントならたくさん落ちているが)。答えは自分の内部にゼロから作るしかない。答えを探している時間があるなら、自分で作ろうぜ!というのが幸せになる為の現実的な選択ではないだろうか。

レンタルビデオ店

近所のG〇〇にはもう観たい映画がほとんどない。多分古いものや回転率悪いものは処分か移動(中古販売?)されてるのだろう。ネットで観る人が増えているから仕方ないけど、思えば観たい映画を探しながら棚を見ていくときの思いがけない出会いが楽しかった。大手チェーン店が進出する前は個人店が結構あって、そこのオーナーの好みが品揃えに反映しており、自分に合う店を発見するとよく通ったものだった。私の場合は20代の頃よく通った『レンタルビデオ・ドルフィン』がそれだ。倉庫跡地にある雑然とした小さな店だったが抜群の品揃えだった。

決めない姿勢

「これからはこうしよう」「これについてはこう決めた」という考え方の良し悪しは時と場合による。経験や失敗から学んで新しい方法や姿勢を決めるのも大事だと思うが、これだけめまぐるしく変化する世の中では「これだ」と思う方が不自然だったりする。私は人間関係で失敗すると例えば「今後は初対面では一切気を許さないようにするぞ!」というように極端な決断をする傾向があるが(それだけ傷ついたということだ)過去を振り返ってみると、そういった約束事が維持されたことは殆どない。初対面から魅力的な人はたくさんいるわけで、その度に「気を許してなるものか!」などとやっていたら、良い出会いなど一生やってこない。そうなってくると、「そうかもしれんけど、まぁどっちでもいいや」的な曖昧な立ち位置が一番可能性を台無しにせずに済むのかもしれない。

仕事上大事なこと

カウンセリングにあたって一番大事なのは、カウンセラー自身の精神状態が安定していることだと思っているので、空き時間や休みはせっせと①山登り②映画鑑賞③カフェでトーク、しているのだが、それを知ると人は「気楽でいいよね」などと評するので大変心外である(一一”)

映画の効能

映画には人それぞれの観方があって、それぞれに興味深いものがある。ちなみに私は《ハッとさせられるセリフ》に出会うのも楽しみのひとつである。先日「ウインドリバー」という映画を観たときに、主演のジェレミーレナー(個人的にアメリカ人俳優で信頼している2人のうちのひとり)が言い放った「・・・ネタバレになるので書けない・・・」という言葉や、「gifted」を観たときに主役の女の子が言い放った「・・・ネタバレになるから書けない・・・」という言葉は、頭の中に毎日10回以上は登場して私を勇気づける。最近老眼が進んで本を読むのが辛くなってきたので、これからはせっせと映画を観てカッコいい生き方を学んでいきたいと思う。※ちなみに信頼するもうひとりは、キャップことクリスエバンス。

グランドフィナーレ

家でとある映画を観ながら堅あげポテトを食べていたら歯が折れた。ポテチで歯が折れるようになったら人生のグランドフィナーレではないかと思ったら心も折れた。。

考えることと答えの変容

考えることは昔から好きだったので、世の中にはあまり考えない人がいると知ったときは割と衝撃だったことを覚えている。例えばどんなことを考えているか?とよく聞かれるが、例を挙げればキリがないほどあらゆるものが題材だ。「なぜこの人たちは横入りするのだろう?」「なぜこのカップルは縦並びで歩いているのだろう?」「なぜこの映画がラブロマンスの棚に並んでいるのだろう?」「なぜドリップした珈琲をもう一度一瞬温めるのだろう?」「なぜこの人はラインの返信にタイムラグがあるのだろう?」「なぜこの人と話していると楽しいのだろう?」・・・といった感じで目に入るもの聞こえるもの全てに四六時中「なぜ」を当てはめている。今の仕事についてからはこれにある変化が加わった。それは「なぜ」に対する自分なりの答えが複数になったことだ。以前なら「横入り」に対して「性格が悪いから」などとやっていたのだが、今では「文化の違い」「年齢的余裕の無さ」「今日は不機嫌」「体調不良」といった感じで考え付く限りの可能性について思いを馳せるようになった。仕事柄あらゆる可能性について考えながら話していく作業は大切なのでということもあるが、一方で「多様性」を持つことが余分なストレスを減らす鍵であることを意識していることも大きい。思い込みが強い人ほど「怒り」に振り回される時間が長くなるのは、心理学的には周知の事実である。「怒り」に振り回される時間というのは、若いうちはいいかもしれないが、私のような年齢になると、怒って好転することなど殆どないことを実感しているので勿体ない時間に思えて仕方が無くなる。それよりは楽しく幸せに過ごしていたい。ということで「多様性の獲得は我々おじさんにとって大切な課題なのではないか?」と考えるのが最近の私のトレンドである。


関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です