2023-12-30

不定期日記|20231230

今年の映画

今年はいろいろあり過ぎて、映画館とサブスクを合わせて観ることができた映画は80本だった。例年100~120本くらいは観るので若干少なかった(フィルマークスという映画アプリでここ6年は記録を付けている)。年の終わりなので、まとめとして印象に残った作品をいくつか書き残しておこうと思う。

「ミッションインポッシブル/デットレコニング1」
いわずと知れたトム・クルーズの代表作。もうシリーズ何作目かもわからないが、とにかくこれぞエンタメ。もうストーリーや深みなど関係なく、とにかく目が離せなくなってしまうという意味で、大好きな作品群である。今だに「映画館で観るべき」と思わせてくれるのも凄い。

「スラムダンク」
原作はほとんど読んでいなくとも、わかりやすい構成で観るものを熱くさせる良作。今年は結構アニメ映画やアニメドラマを観た記憶がある。近年の日本のアニメのレベルの高さは、私のような素人でもよくわかるし、深く胸に刺さる内容のものも多い。学ぶことが多く目が離せない分野である。

「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー3」
マーベル作品の中でも少し異端の作風であるガーディアンズ。ジェームズ・ガンの描く毒がある優しい世界観はとても好み。マーベルに興味がない人でもガーディアンズ3作品は楽しめるのではないかと思う。今作の終了をもって私のマーベル熱は終了した。

「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」
友人に勧められて鑑賞。べったりとした暑苦しいまでの人間味に心震える。マグノリアもそうだったがポールトーマスアンダーソンの作品は観終わった後、人間の深淵に触れたような不思議な感覚を覚えるのがいい。

映画はストレス発散の場所なので、よほど余裕のある時しか考えさせられる作品は観ないのだが、今年観た作品を振り返ると顕著にその傾向が表れていて、本当に”色々あった年″だったのだと思う。

忘年会

今年、久しぶりに忘年会というものがあった。私がまだ塾講師をしていた頃の生徒が企画したもので、コロナ前は数年に1度くらいのペースで実施されていた。彼らが中学生のころに担当していたので、教えていたのはもう20年も前の話だし、生徒たちは34歳になっていて結婚している者も多かった。他の代の生徒とはもうほとんど繋がっていないので、この代だけが覚えていてくれるのは不思議ではあるが、そんなことよりも未だにこうして企画までしてくれるというのは、心から嬉しいことだ。人は自分の歩いてきた足跡に、こうした温かな思い出を共有できる人たちが存在していることに、勇気をもらえる生き物ではないかなと思う今日この頃である。

少数派は多数派になれるか

仕事上「ちょっと社会になじめなくて…」という話を聞く機会が多い。ざっくり言えば社会とは多数派によって動いているシステムだ。それは「一般的には」「みんなそう」などに代表される”一般”とか”みんな”のことで、同じ傾向と価値観で動く人たちが多く存在している場所だし、そのおかげで社会は前進し続けているというのも既知の事実である。しかし、一方でそこに属すのが苦手な人たちもいる。所謂少数派と呼ばれる人たちだ(正式にそう分類されているわけではなく、この界隈での便宜的な話)。カール・ユングが指摘したようにタイプ論でいえば内向傾向は少数派だし、エレイン・アーロンが指摘したように人より過敏という傾向を持つ者も少数派だ。もしかしたら「おたく」と呼ばれる人たちも少数派かもしれないし、思考に深く潜るタイプの人も少数派と言えるだろう。その中で社会にうまく適応できなかった人たちは、精神的に孤立しがちだし、自己防衛上一人を好むようになる。そうなると、中には弱者的な立場に立つ人も出てきてしまうわけで、生きていくのが辛いという感覚に陥る人も当然多くなる。

しかし、この界隈で仕事をしている私としては、所謂少数派の人たちで集まれば、場合によってはそれなりの強さを獲得できるのではないかと考えることもあって、今までにも何度かそういった試みをしたことがある。誰かも指摘していたが、例えば多数派が5人いる場所に少数派が10人いれば、それはもう多数派なのだから、ある種の安心感さえ確保できるからだ。しかし、この試みは今までのところ上手くいったとは言い難い状況である。何故か?それは私が大事なところを見落としていたからだが、そもそも今まで社会に適応しづらかったということは、対人関係で嫌な思い出を数多く持っており、それは例え同じ傾向の人同士だからといって簡単に払しょくできるようなものではないということだ。人と深まることができるのは安心感があってのことだと仮定すると、人に安心感を持てない状態の人同士が接点を持てば高い確率で上手くいかなくなるということだ。実際にそういった企画が上手くいかなかった度に様々な文献に目を通してきたが「上手くいく可能性の低さ」に言及している研究者が多数派なのは、まさにこういうことなのだと思い知らされた。

ただし反骨心があり過ぎるという意味では私もまた少数派だ。初めに書いたように少数派だって集まれば多数派であるという仕組みを信じたいという気持ちは人一倍強いと自負している。だからこそ、しぶとく何か方法はないかと模索する日々は未だに続いている。賛同してくれる人がいたなら可能性は消えやしないと考えているので、当分は試行錯誤を続けながら頑張りたいと思っている。

慢心は命取り

以前書いたかもしれないが、振り返りのタイミングなので自戒を込めてもう一度書こうと思う。これは個人的な傾向の話だが、自分の場合は上手くいっていると思うときほど、あとで手痛いしっぺ返しを食らう確率が高いように感じる。振り返れば昔からそうだった。仕事だけじゃなく、プライベートでも「上手くいっている」と思うときほど実際には大きな見落としがあって、高確率でしんどい状況が訪れるのだ。そんな傾向に気づいてからは、オンオフ関わらず調子に乗らないようにしている。どんなに順調でも何か見落としているはずと考えるようになったし、楽しいと感じるときでも「調子に乗るな」という自戒ができるくらいには慎重になった。思えば「人生は前提として苦しいもので、だからこそ時折楽しいことを見つけたり起こしたりして日々をしのいでいるのだ」という考え方を好むのも、そういった経験の影響があると思う。

しかしそんな私でも、いつか楽しいことを純粋に受け入れられるくらいの力は身についけたいと考えている。村上春樹が書いていたように「あらゆる試練は自分が強くなるために起きていると考えれば、辛いだけではなくなる」(記憶が曖昧なので正確ではないが)という考え方が私を支えるひとつの柱であるからだ。強くなった暁には思う存分楽しく過ごせる時間が持てるなら、それはそれで試してみる価値のあることだと思っている。

入浴剤は濁りに限る

昔、よくキャンプや山やスキーに行っていた頃、楽しみといえばそこでしか入れない温泉と湯上りのビールだった。特に露天風呂に入りながら、誰かと話すちょっと込み入った話は、裸であることも相まって普段よりオープンになりがちで、より相手を理解できたような気分になって、この上ない贅沢な時間だと思ったものだ。そして時がたち、今現在の私の楽しみといえば、自宅の風呂に入浴剤を入れてぼんやりと湯船につかる時間である。今日一日話したことを振り返ったり、次の休みにすることを考えたりするのは、思いのほかストレス発散の役に立っているように感じる。そしてその際の絶対条件は、湯船が濁っていることだと気づいてからは欠かさずに濁り系の入浴剤を使うようになった。何故濁っていると落ち着くのか?第一に色はついているが濁っていない入浴剤だと、なんだか裸のままのような気がして(言っていることがおかしいのは重々承知している)気もそぞろな感じになる。早く出なければならないような気持ちさえする。そこにいくと濁っていると何かに包まれているような安心感に包まれるのだ。結果としてゆっくり浸かることもできるし、考え事をするにも最適な状況が生まれる。そんなわけで入浴剤はメンタルヘルス上とても重要なアイテムとして私を支えてくれている。(欲を言えば香りが足りない。濁ったうえで落ち着く香りがするような、例えばバーベナのような、そんな入浴剤があるのなら誰か教えてください)

プレッシャーをかけてくるAI

しばらく前からスマートウォッチなるものを利用している。山を歩くのが好きなのだが、基本的に一人で山に入るので途中で何かあった時、例えば何らかの理由で倒れてしまったときに、自動的にSOSを送ってくれるという機能が魅力的だったからだ。さらにこの時計は普段の運動量も計測してくれるので、一日どれだけ運動しているかがわかるのもありがたい。基礎疾患持ちの私としては、そういった機能は健康維持のために大いに役に立つだろう・・・と思っていたのだが、それはあくまで自分の気力が充実していて前向きな時には、という条件が付くことが分かってきた。なぜなら逆に気力が上がらずネガティブな時にはなかなかに厳しい監視者に感じてしまうからだ。悩みがあってとぼとぼ歩いているときや、どうにも調子が悪い時にも「もう少しで目標達成しますよ!」「まだ時間がありますよ!」などとやたら煽ってこられるのは不快だし、眠りの質が悪かった寝起きなどに「一日を始めますか?」などと聞かれると「絶対起きないぞ」と、もう一度ベッドにもぐりこんで抵抗したくなる。そんなわけでスマートウォッチは薬にも毒にもなると感じていた折、今度は自動車保険更新に際して車にセンサーが取り付けられることになった。今までの保険がこのタイプに変更になるというから仕方なく受け入れることになったのだが、これがまた私の運転を四六時中厳しくチェックしてくるのだ。時間に余裕がなくて少し焦って運転などしようものなら「60点!もっと慎重に!」などと容赦なく採点してくるし、混んでいてノロノロ運転していると「安全運転です。その調子!」などとかなり独善的な角度で評価を下したりする。もう少し私の気持ちに寄り添って「こんなに混んでいると、何のために生きているのかな?なんてついついネガティブになるタイプですよね?でもこんなときだからこそ、少し軽快な音楽で気分をリフレッシュしませんか?ちょっと頑張り過ぎだから心配です!」とか、気の利いたことを言ってくれると聞き甲斐もあるというものだがどうだろう?

混沌のさなかで

ロシアによるウクライナ侵攻に引き続き、イスラエルとハマスの衝突が起こりガザ地区は地獄の様相を呈していて、その影響で世界の分断が再び明確化され混沌とした状況が続いている。それだけでも相当痛ましいことなのに、国内に目を移せばコロナ禍の影響も冷めやらぬままに円安と戦争の影響で日常生活は不安定さを増している。そしてこのタイミングで政治の腐敗が明らかになりつつありと、どこを向いても暗澹たる気持ちになる出来事に溢れている今日この頃だ。多くの人が心を痛め、ネガティブな影響を受けていることだと思う。

しかし一方で、人はこういうときにも状況に適応したり、防衛機制を働かせたりしてちゃんと前に進むという機能を持っているのも事実だ。振り返れば、もうこれ以上の悲劇はないと思った阪神淡路大震災や東日本大震災のときでさえ、人々はしばらくすると元のように歩き始めた。我々人間には生物レベルで種の保存という大きな目的があって、それを阻害するような全体反応が続かないように設計されている。もちろん未だに震災の影響で苦しんでいる人たちはたくさんいるし、その為に奮闘している人たちもたくさんいる。それでも大部分の直接関係していない人たちはそれらの出来事についての思いを徐々に小さくして、いずれ日常生活を何もなかったかのように送るようになるのは、人間に備わった種の存続のための生物的機能なのである。

そんな風に考えてみると、生物的機能に抗うだけでなく(直接的に流れを変える努力をすることは当然大事だが)、その流れに乗っていない、あるいは乗れなかった人たちで力を合わせてできることを地道に続けることも結構大事ではないかなと思う。例え初めは少数派だとしても、それらの人たちが次々に繋がることができれば、いずれは大きな流れを生み出すことができるからだ。(というか、そうだと信じたい)そんなことを思いながら、来年もまた混沌とした状況の中でこの仕事に取り組んでいくのだろうなとぼんやり考えたりする。私にできることがあるとすれば、カウンセリングを通じて「繋がること」を考えていくことだから。

最後に

今年も一年、皆さんから様々な話を聞く機会に恵まれたことで、私もまた知らない世界について学び成長することができました。来年はどんな話に出会えるか楽しみにしつつ、この戯言を終わりたいと思います。ここまで読んでくれてどうもありがとうございました。


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