2023-10-12

不定期日記|20231012

何故、本にはコーヒーが合うのか

それは偏見ではないか?と思われる方もいるとは思うのだが、私の記憶では、映画でもドラマでも小説でも漫画でも、珈琲を飲みながら読書するというシーンは他の飲み物に比べても圧倒的に多い気がする。もちろん紅茶でもココアでもコーラでもお茶でも成立するし、何ならウイスキーなどのお酒でもありだとは思う(実際に知り合いの何人かはバーで本を読むと言っていた)。しかし、私の場合はコーヒー以外の飲み物だとどうも集中できないし、ウイスキーなど飲もうものなら数分で寝てしまう。(そう考えるとカフェインの覚醒効果が集中力を高めて本に深く入り込めるということかもしれない)色々な理由はあるだろうが、コーヒーの苦みに秘密があるのではないだろうか?というのが私の持論である。様々な人生の物語には必ず苦みのようなものが付随すると思うが、その苦みとコーヒーの苦みが共鳴することで、どこかの誰かの物語が私の物語として体に沁みていき、その結果、読んでいる本の世界に没入し、リアルに気持ちを味わうことができるのではないか?と思うのだ。ただしこの意見だと、苦みを甘味、さわやかさ、すっぱさ、まろやかさ、と変えても成立するので、結局のところ自分の好きなものを飲みながら読めばいいという話になりそうだ。

消える町を思い出せない

先日、近所の交差点の角の土地が更地になっているのに気付いて「あれ?ここなんだっけ?」となった。しかしいくら考えても全く思い出せない。そこは家からワンブロックしか離れていない場所だし、そもそも私はここに30年も住んでいるのにだ。そういえば、それが大事なことでない限り、脳はその機能を保つために長期記憶には残さないようにするという話をどこかで読んだ気がする。我々人間は随分と合理的にできているわけである。でも、そこに何があったかも忘れてしまうとなると、少し寂しい気持ちになるわけだがどうだろう。

ジブリの新作が分からなかった件

観に行かれた方も多いかと思うが、何人かのクライエントさんに「これについて話せたら」と言われていたこともあったし、映画好きとしても興味は持っていたので、例の作品を観に行ったわけだが、結論から言うと筋としても映像としても面白かったが、よく言われているような『隠された何か』についてはちっともピンとくるものが無くて、帰りしなには自分の理解力の無さを改めて知らされたようで少々落ち込んだ。とはいえよくある解説サイトなどを見て、知らない誰かの影響を受けたくもないので、またいつか見る機会があったらそのときには何か気付くかもしれないし…と一旦保留にした。そもそも映画なんてのは、個々の楽しみ方で観ればいいものだと思っているので、例え深読みする力がなかろうと楽しいと思ったらそれでいい、ということでお願いします。

村上春樹の新作が切なかった件

少し前になるが村上春樹が久しぶりに新作を出すというので、早速手に入れて少しずつ読み進めていたものがついに終わってしまった。何度か書いているが彼のことについて話すことで共感を得られることはまずないので(私の持ちうる人間関係の中においてという意味)読後の感想もひっそりと自分の中で消化したわけだが、今回は途轍もなく切ない内容だった。そこには【長い間ひとりで抱え続けたある思いだけに支え続けられた人生】という内容が描かれていた。私はそういう物語に無条件で泣けてしまうのだ。誰かから見たら「そんなこと」でしかなくとも、他の誰かにとっては「人生の長さに匹敵するくらいの出来事」であることに。
一般的には概ねそんな不合理なことはせずに、苦しければ新しい幸せを見つけて次に進むのだろうが、一方で、たったひとつの思いを支えに生き続けている人もどこかにいるのではないだろうか?と思うことがある。そういう人の話はどうしても聞いてみたい。そして彼もまたそういう人なのかもしれないと考えると、次の作品読みたさについつい初詣などで「知っている人が全て無事だった一年をありがとうございます。あと村上春樹も健康でありますように」と願ってしまう自分がいる。

名古屋はやはり保守的なのか

何度か書いているように、私はコーヒーが好きなので、自分でも淹れるし飲みに行ったりもする。大体は友人の珈琲屋さんに行くのだが、ときどき用事などで栄や名駅(名古屋駅)に出ると、Googleに「近くの珈琲屋さん」と尋ねてみることもある。しかし残念ながら7割がたチェーン店を勧められてしまうのが常である。(チェーン店はチェーン店で有難いのだが、刺激を求めることはできない)
旅行に行って地方都市などで検索をかけると、多種多様で個性的な珈琲屋さんがヒットするので楽しくて仕方ないわけだが、名古屋はその高揚感に欠けるのだ。昔店舗専門の不動産屋さんと話したときに「名古屋は保守的なので、新しい知らない店はほとんどやっていけないんですよ。でも名の知れたチェーン店は流行ります。既に成功しているという保証があるからでしょうね」と言われたことがあって、なるほどと思ったことがあるが、住んでいる身としては微妙な話である。

スレッズに懐かしさを感じる

音声配信でも話したが、仕事用とプライベート用に分けてスレッズをやっている。以前はXをやっていたのだが、皆さんご存じのように経営者が変わってあれこれと方向性が変わってしまったので、引っ越しを考えていたところに登場した新しいSNSは渡りに船であった。現状としてはXには備わる機能がスレッズには間に合っていないので、新しいのか古いのかよくわからない感じだが、その分あまり商業的なアプローチもないし、変な絡みをしてくる人もいないので、好き勝手呟いては独り言ちることができる。それが昔ツイッターを始めた頃(2010年頃)に似ていてなかなか良い。もっとも多くの人はXに留まっているので、やっている人が少なく、まるでシーズンオフの観光地を歩いているような感じではあるが、そもそもそういう閑散とした感じは好きなので、繋がりが増えるかどうかは別としても当分は楽しみたいと思う。

理解したいか、したくないか

先日行ったオンラインコミュニティーのテーマトーク会【嫌だと思う話し方】で、何から展開したかは忘れたが「結局話がかみ合うとはどういうことなのか?」という話になった。技術や性格についての色々な話が出てきてとても面白かったのだが、最終的に出た結論は「結局双方が相手のことを理解したいと思っているかどうかですよ」ということになった。考えてみれば全くその通りで、もっと知りたいとは相手に興味があるからこそ(あるいは相手の話に興味があるからこそ)湧いてくる感情なので、興味が無ければ相手のどんな話も適当にしか聞くことはできない。興味のない話を集中して聞くなど、学校の授業を思い出せば分かるが、かなりの高難度な上にストレスフルである。そう考えると相手が興味を持っていないのに、それに気づかずに夢中で話してしまうことがあったら、後で非常に気まずい思いをしなければならない。できれば事前に興味あるか無いかを聞いておきたいところだが、そんなことをし始めたら人間関係の多くは崩壊してしまうような気もするので、やはりぶっつけ本番でいくしかないのだろう。私的には、自分の話をちゃんと聞いてくれない人とは距離を取ることをお勧めしたいが、なかなかそう簡単にはいかないのが人間の欲求なので、そこはそれなりに・・・ということでこの話は〆ることにしたい。

不穏な世界情勢に思う

こうすればとか、ああすればとか、各国で様々な意見や対策が話し合われてはいれど、現地で否応なく巻き込まれている人たちのことを思うと、どうにも落ち着かない。僕は人がどう考えるのかに興味がある人間なので『ある日突然、周りの命が次々と奪われていく状況に巻き込まれたら?』と考えてはみるのだが、どんな角度で考えても結局は安全な場所で考えられた話でしかないのだと思うと、そんな行為には何の意味もないような気がしてくる。
しかしだからといって人の命が大量に失われ続けている以上、これは関係のないことと割り切るわけにはいかないし、何よりも他のどんな生物より深く考える力を与えられている人間としての我々の責務を放棄するわけにはいかない。ちっぽけな僕らにできることは何だろう。個々の力では大きなことなど何もできないが、それでもできることがあるのなら粛々と向き合っていきたいと思う今日この頃である。


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