2023-08-14

不定期日記|2023814

7月から喘息を患ってしまい、ずっと療養していたために、今回は行動ではなく思考した内容が多く、少々読みづらく感じられることもあるかと思いますが、毎回書いているように、どういったカウンセラーなのか知ってもらう為にはいい試みだと考えているので、興味がある方は一読頂ければ幸いです。

どれくらい自分の問題に置き換えられるか

他人の振る舞いや言動で腹の立つことが多いという人は案外多いのではないだろうか。かくいう私もそういうことは人並に感じるわけで、一体どのように対処すればいいのかについて長きに渡り試行錯誤してきた。無視をする、他に気をそらす、距離を取る、直接注意をする、権力者に訴える…など様々なアドバイスはあるだろうが、私が最近嵌っているのが「自分の能力でそれを乗り越えられないか」ということである。

例えばスーパーの通路でカートを止めたまま話し込んでいるグループがいたとする。今までなら腹を立てたり、舌打ちしたり、何なら無理やり間を通って邪魔であることをアピールしたりしていたのだが、どの方法も後味が悪いというか、それなりに新しいストレスを生じてしまうから、ベストの方法ではないことは感じるし、そもそも迷惑をかける人というのは、こちらの思いなど気にかけもせず楽しく過ごしているので、なんだか自分だけがモヤモヤしているみたいで嫌な気分にもなる。

そこで「自分の能力で乗り越える」である。例えば自らの知識を武器とするなら
➀その人たちの精神状態を勝手に分析する
②自分の精神状態を興味を持って分析する
ことをしてみるわけだ。

➀自分のことしか考えない人は、社会的にはそこそこのメリットを享受できるかもしれないが、本当の意味で安らげる人間関係を手に入れることなど一生ないのだろうな。だとするとこの通路をふさいでまで話をするというのも孤独を埋める為に必死なのだろうな。なんだか切ないぜ…とか。

②些細なことが気になるということは、体調が悪いか、精神的に疲れているかだな。そういえば今週は仕事が意味なくハードだったし、そのせいで寝不足だったからな。だとしたら明日辺りマッサージにでも行ってリラックスするか。こういうことでもないとなかなか自分の状態に気付けないよな…とか。

よく人は変えられないが自分は変えられるみたいなアドバイスがあるが、あれはそれなりの知識が必用ではないかと思っているので、ここでは心理学の知識を使って自己解決できる問題にすり替えているということになる。ちなみに分析があっているかどうかはそれほど問題ではない。自分の機嫌を自分で取れるようになることが大事というだけなので、方法は自分流で構わないのだ。もっとも「日々の生活で人に振り回されたくないなら」ということだが。

WHYよりHOWがいいが

上に書いたばかりだが、人に振り回されたくなければ、「どうして」と相手の言動や行動の理由を考えるより、「どうやって」この状況を乗り越えるかに意識を切り替えたほうがストレスは少ない。「どうして」そんなことを?と考えたところで、相手には相手の考え方もあることだろうし、そもそも自分とは違う正しさを基準にして生きているのが他人なのだから、自分と同じように考えられないことをとやかく言っても埒が明かない。それよりも「どうやって」この状況を切り抜けようと考えれば、相手が視界から消えるし、自分がどうするかという実現可能そうな感じになるのがいい。

カウンセリングの場では「なぜ」を考える機会も多いが、これはあくまで自分が「なぜ」そう感じるかということであり、相手が「なぜ」そうするのかを考えることは、必要が無い限りはしない(必要があればする)。なぜならそれは勝手な推測になってしまう上に、ネガティブ傾向のある人の推測は概ねネガティブな内容になりがちだからである。

その点、自分の「なぜ」がわかれば自分の大事なものがわかり、自分の方向性がわかる。そこに不確定な相手の「なぜ」が入らないので、選択に悩むことが少なくなる。自己理解が大事と繰り返し書いているのも、そういう理由によるのだが、実際には人に傷つけられた経験のある人は、相手が「なぜ」そうするのかに強く囚われるものなので、カウンセリングではそういった傾向を理解したうえで、ある程度相手の心理も分析しつつ、慎重かつ丁寧に寄り添う必要がある。

親友と呼んでもいいのか問題

先日、オンラインのコミュニティで議題に上がったのだが、こちらを親友と思っているかどうかわからない友人を勝手に親友と呼ぶことに若干抵抗があるという話である。私も以前より同じことを考えていたので、ここに書き残したいと思う。

結論から言うと、相手にそれを言うかどうかは別として、勝手にそう思っていればいいとは思う。そもそも相手の気持ちを測ることなどできないので、人間関係は自分がしたいように規定すればいいし、そのことで落ち着くなら、まさに自分の機嫌を自分で取れていることになるので、心理学的には素晴らしい状態と言える。ちなみに個人的なことを言えば、例えば自分のことを親友と呼んでいいかどうかを躊躇してくれるような謙虚な(謙虚以外の理由だとしても)友人がいたなら、それだけで好きになってしまうと思う。

同じ気持ちじゃなければならないなんていうのは、とても日本的だし、そういう考えが分断を生んでいる原因の一つであることにそろそろ気付いた方がいいとも思うのだがどうだろう。

人間不信がある人に信じてもらえるのか

愛着障害やCPTSDなどを抱えている人たちの多くは、人間不信の傾向に陥ることも多い。一番信頼できる筈の人たちに精神的に追い詰められてきたのだから、親でも家族でもない他人はもっと怖く感じてしまうからだ。だから人間関係では傷つけられることを避けるため、基本的に【関係が深くなる前に自分に合わないところ(自分を傷つける可能性)ばかり探してしまい、それが見つかると離れたくなる】傾向に陥る。結果、世の中には100%合う人は存在していないので、誰と付き合っても長続きが難しいということになるわけである。

一方で人に対する欲求が本能的に存在している為、一人でいることを完全に楽しめるわけではない(当然例外はあるが)。「人が怖いのだが人を欲する」という矛盾した状態に陥ってしまうことになる。そういう人たちにとって安心して話ができるコミュニティは喉から手が出るほど欲しいものなので、私のところでもよくそういう話になる。

そういう気持ちの人たちを集めてコミュニティを作れば、お互いに協力し合えるし、信頼の練習ができるのでは?と思われる人も多いだろうが、実はこれがとても難しい。様々な研究のどこを探っても勧められてはいない。何故か?例え同じ傾向を持っていると分かっていても【自分と合わないところを見つけてしまう】し、見つけた以上は離れたくなるからだ。

ところでリフレイムは難しいと承知の上でコミュニティを運営しているわけだから、一体どう上手くやっているかが気になるかもしれないが、残念ながら心理学の研究を覆すようなことは起きないので、当然のごとくそれなりに苦労もあるし努力もしている。しかし、研究上温かい経験でしか不信は覆せないというのも事実。希望の無いところに○○は生まれないみたいな言葉があった気がするが、私もまたそう考える一人ではあるので、研究結果との我慢比べだと思って頑張っている。興味がある方は是非試してみてください。

理性が減ることへの恐怖

仕事柄もそうだが、お年寄りといわれる人たちについての困っている話を聞くことは多い。中でも気になるのが、どんどん頑固になる、あるいはどんどん理性が無くなるというところである。要するに若い頃は自分の問題点をある程度抑えつつ隠しつつ生きられていたが、徐々にその力が失われて自分の問題点が表出してしまうということだ。これは怖い。なぜなら私は自分の問題点を嫌というほど認識しているし、そんなものが大手を振って歩きだしたら迷惑この上ないからである。そしてもっと怖いのは、それは知らない間に始まっているということだ。まだ「あれ?ちょっとわがままだぞ俺」とか気付くなら何とかしようもあるが、ある日突然誰かに「前々から思ってたんだけど、お前わがままなんだよ」とか言われた日には、ただでさえデリケートな心が真っ二つに割れてしまうかもしれない。だからどうかお願いである。私が理性を失いかけたら遠慮なく伝えて欲しい。そうすれば私は早速田舎に引っ込んで畑で野菜作ったり、犬と戯れたりして、理性が欠如したままでもあまり迷惑を掛けずに過ごすことができるからである。

今を生きていないから、死ぬのが怖いのではないか?

個人的仮説だが、今を生きていないほど、死ぬのが怖くなるのではないか?と思っている。この場合の今を生きていないとは、日ごろ過去や未来に気を取られてしまっている感じである。例えば私は運転しているとき、気付くとあれこれと過去の出来事に対する思考を巡っている気がする。決して運転に集中していないわけではないが、目で見ているものと脳が感じていることが違うような気がするのだ。そうなると今の時間に今のことについて考えたり感じたりする瞬間が限りなく少ないことになるから、【実感を伴って今を過ごしていない=生きてるな~と思うことが少ない=人生を納得感を持って過ごしていない=心残りや後悔が多い=まだ死ねない=死ぬのは怖い】という図式が成立するのではないだろうか。そう思う度私は「あぁ焼きそばが美味しい」とか「太陽がまぶしい」とか呟いたりして微かな抵抗をするのだが、しばらくしてふと気づくと凝りもせずに過去の出来事に関連した思考の中をうろうろしているので、やり残したことは山積みのままだったりする。やれやれである。

一難去ってまた一難

前回の日記で男性更年期障害と付き合う為に四苦八苦している話をしたばかりなのに、今度は喘息になってしまった。30代の頃咳喘息になったことがあったのでそれ以来だが、今回は入院を勧められたほど酷い症状だった。1週間ほど咳でまともに眠れない夜を過ごしたし、連日ステロイドの点滴を打ったことで味覚がおかしくなってしまった。マンションが大規模修繕工事中で(喘息の原因かもしれない)粉塵や塗料の影響で再び悪化するわけにもいかず、泣く泣く2週間ほどホテルで暮らした。更には咳で声帯が炎症を起こしたのとステロイドの副作用で声が出なくなってしまった。要するに仕事ができなくなってしまったのである。こうして書いている今も(お盆休み中)声が枯れていて、とにかく話さないことが大事という医者のアドバイスに従って黙って過ごしている。そんなわけで7月の大半は仕事にならずで多くの方に迷惑をかけてしまい大いに反省している次第である。

日程の変更を快く受け入れてくれた皆さんには、改めて感謝申し上げます。ご協力ありがとうございました。おかげさまで声は少々掠れがちですが現在は復帰しております。

最後に

人間には他の動物にはない「意志」の力がある。言い換えればそこが人間を人間たらしめるところだと思っている。確かに過去のネガティブな出来事が人間に多大な影響を与え、生きていくことに常に問題がついて回るようになること、そしてそこから回復することが困難であることはあらゆる研究によって実証されているから、単純に「こうすれば良くなる」などと言うつもりはない。しかし一方で、最初に書いたように人間には「意志」を持つという力がある。それをも放棄させるくらい過去の出来事の影響力が強いことは十分承知だが、それでも人にとってそれは十分に希望であり武器だと思うのだ。それが私がこの仕事に未だ向き合えている理由だ。例え多くが上手くいかなくとも(私は諦めるのが苦手なので)いつか環境が改善して、そういうものが動き出すのを気長に待ちたいと思う。


関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です